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放蕩見聞録・読書篇

買いたい新書

 ( 2010.01.24 up / 以下適宜up )

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こちらのページでは、最近(?)の私の読書暦の中から、お勧めの本や、
あるいは逆に「これは止めておいた方が…。」という本(^_^;;を、ご紹介して行きます。

今までにもBBSや「日記」などで、面白かった本の紹介などはしていたのですが、
時間が経つうちに何処に行ったものやら分からなくなったりするものですから(^_^;;、
この際、一つにまとめておこうと考えた次第です。

私の読書時間は主に通勤途中の電車の中ですので、ここでご紹介するのも主に、
混雑した電車の中でも読みやすい、新書や文庫が中心になります。
(まれに新書・文庫以外の一般書籍も読むのですが、電車が込むと、まあ大変です。笑)

なお、本のご紹介内容については、過去の掲示板への書き込みや日記でのご紹介、
あるいは、Amazonのカスタマーレビューに投稿したものの転載などが中心となります。
(同じ本をテーマに何度も文章を書き分けるのも大変ですので…(^_^;;)

中には既にご存知のものもあるかと思いますが、その点はご了解下さい。

また出版から年月を経て、既に入手困難な書籍も取り上げていますが、
「古本屋を探しても読む価値のある本だ。」と思っていただくことにして(笑)、
これもご了承ください

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沖縄関連
 
戦争と沖縄

 
沖縄幻想

 
美童物語

 
お笑い沖縄ガイド

 
カジムヌガタイ

仏教・神道・日本社会・文化関連
 
日本の軍隊

 
一神教の闇

 
環境と文明の世界史

 
 
 
 

 

海・魚・水族館関連
 
本川 達雄

中公新書

2008/06
新書
¥ 882
オススメ度 : ◎
  サンゴ礁に関心を持つ人、全てにとっての“基本文献”

2008年は「国際サンゴ礁年」でした。それを契機に、同じ著者の1985年の旧作が全面改訂された形で上梓された本ですが、もしかしたらこの出版こそが、「国際サンゴ礁年2008」の最大の財産かもしれません。とにかく、ダイバー、アクアリスト、そしてサンゴ礁の危機や保全に関心のある人間は必読。これだけの内容が新書で買えるのだから、これ以降、本書を読んでおかなければ、サンゴやサンゴ礁について語る資格はないとさえ言いたくなります。

あとがきには、
>本書は「サンゴ礁はやわかり」である。手軽にサンゴ礁が理解でき、その魅力が伝わるように心がけた。
とありますが、「はやわかり」だからと言って、決して“通りいっぺん”の内容ではありません。造礁サンゴの共生褐虫藻の分類の話など、専門書や学術論文を読まなければ分からないですし、今、実際にサンゴ礁保全活動を行なっている人間でさえも、知らない話が満載なのではないでしょうか。況んや一般のダイバーやアクアリストに於いてをや。
漫然と眺めていたサンゴ礁の生物たちの間に、こんなにも不思議で、こんなにも魅力的な、生き物同士の関係が繰り広げられていたことを知れば、見慣れた景色も全く違って見えて来ることでしょう。ダイビングやアクアリウムの楽しみが、何倍にも深まるに違いありません。

また最終章が我々の現代文明の批判にまで繋がって行くあたりは、『ゾウの時間 ネズミの時間(中公新書)』を書いたこの著者の真骨頂でもあります。サンゴ礁の生き物社会のお話を面白おかしく読み進むうちに、我々の人間社会までが、これまでとは違った姿を見せて来るのです。「目からウロコ」とはこのことでしょう。
もちろん、著者は文明論の専門家ではありませんから、そこで語られている“北”と“南”の文化の対比には、些か乱暴なところもありますが(^_^;;、我々の常識をクルリと逆転して見せてる手腕は、「お見事」としかいえません。ある種の快感さえ感じますね(笑)。

サンゴ礁の生物や生態学に関心のある人にはもちろんですが、それだけでなく、沖縄を初め、南島の文化に興味・関心のある人にも、自信を持ってお勧めしたい一冊です
( 2008/07 )
桑村 哲生

岩波新書

2004/09
新書
¥ 819
オススメ度 : ◎
  海の生き物の不思議さ、面白さがいっぱいに詰まった一冊

実は当初はあまり期待しないで読んだのですが(笑)、意外にも非常に面白かった一冊です(^_^;;。

ホンソメワケベラを中心に、クマノミなど、魚の性転換について、そのパターンや生転換する仕組み(理由?)などが分かりやすく説明されています。またクマノミ類の性転換について、一般にはあまり知られていない(と思うのは私だけかな?(^_^;;)新しい知識なども得る事が出来ました。クマノミをペア飼育して繁殖させようという人にはきっと役に立つ内容だと思いますし、それだけではなくて、研究者の方たちが実際のフィールドでどのように調査活動を行っているのか、なども具体的に知る事が出来て、とても楽しめます。値段も安いですし、会社に行く往復2日間で読めてしまいましたので、非常に気軽。魚の生態にご興味のある方は是非、お勧めします。

世界の主要先進国と比べると、実は日本と言う国は非常に特異な地理的条件に恵まれていまして、例えば東京のような世界に冠たる大都市から、日帰りでスノーケリングやダイビングを楽しめるという国は、世界中を探しても他にはありません。それにも関わらず、国民の大部分にとっては海は親しみのもてる場所ではないと思いますので、こうした手軽な本で、海や海の生き物の素晴らしさに触れることが出来るというのは、非常に喜ばしいことだと思います。このような本が、もっともっと売れて、もっともっと増えると良いと思いますね。
( 2005/01 )
鈴木 克美

丸善ライブラリー

1994/01
新書
¥ 673
オススメ度 : ◎
  「水族館」とは何か?「水族館好き」なら必読の一冊!!

私・放蕩息子の「水族館観」の“原点”となった東海大学海洋科学博物館の立ち上げを手掛け、後に館長、東海大学の教授などを勤められた鈴木克美さんが著した、水族館の本。日本の水族館の歴史を解説しながら、今後の水族館の「あるべき姿」について、水族館の社会的役割や社会的地位の観点から、詳細に論じています。

巷間のいわゆる「水族館ガイド」のように、直接的に「こんな水族館が面白い」とか「水族館のここを見てみよう」というような内容が書かれているわけではないのですが、この本を通じて日本の水族館の歴史を知り、そこで活躍した数多くの「水族館人」の業績や“想い”を知ることで、自然と「水族館に行ってみたい」と思うようになることでしょう。また、そうして出掛けた水族館でも、「ただ水中の珍奇な生物の姿を鑑賞して楽しむ」というだけの娯楽消費的な態度が変わって、「生き物のことをもっと良く知りたい。」「海のことをもっと良く知りたい。」という、知的好奇心を抱くようになるのではないかと思います。少し古い本ですから、既に入手が難しくなっている状況はありますが、もし「水族館好き」を自称するのであれば、何はともあれ必読の一冊です。

特に第V章「水族館と日本の社会」では、日本の水族館の現状に対する数多くの問題提起がなされており、水族館の飼育担当者や経営者など、いわゆる「水族館人」にとっては無視できないものでしょう。自然環境の大切さやその保護を訴える一方で自然を消費することによってしか成立しないという「水族館」の特殊な(?)立場から逃げ出すことなく、「自然を消費して成り立っていることを承知の上で、その消費に見返るどれだけの意義があるのか」と自問自答する筆者の基本姿勢は、私のような「ホビーアクアリスト」も見習うべきものだと思います。またさらには、種々雑多な自然水産物を採取して食物とする「魚食文化」の伝統を色濃く持つ我々日本人全てが、共有すべき基本認識でもあるのではないでしょうか。

実は私は、鈴木克美さんが水族館について書かれた本を、この本で始めて読んだのですが(魚類繁殖に関する研究論文のようなものは、これ以前にもありました。)、今回この本を読んで改めて、私自身が持っている海や魚や、あるいは人間と自然との関係、もしくは自然の生き物の飼育に関する価値観のほとんどが、幼い日に通った東海大学の海洋科学博物館で養われ、つまりはその水族館を通じて間接的に、鈴木克美さんの薫陶を受けて育ってきたのだと言うことに気付いて、改めて驚きました。齢五十も近くなって始めて、自らの“師”の姿を知ったのです(苦笑)。

しかしこれは素晴らしいことですね。

鈴木克美さんの“志”が込められた水族館に通って育ったことでいつしか、その鈴木克美さんの“志”までも、(もちろんその、ほんの一部にしか過ぎないのでしょうけれども(^_^;;)私に伝わっていたのです。直接言われても中々伝わらないことが多いのに、水族館の展示に接することを通じて、「水族館とはこういう施設であるべきだ。」とか「自然の魚を飼う時には、こういう気持ちを持つべきだ。」みたいなことが、ただ展示を見ていただけの私にも伝わる。それも伝えられた自分自身でも気付かぬうちに自然に。私自身は単純に、楽しんで水族館を見学しているうちに。

私は改めて、私の地元にある、今ではたいして話題になることもなくなってしまった水族館を誇らしく思うと同時に、この水族館と同じように、ある意味見学者の自然観や価値観の形成にまで影響を与えることが出来るような素晴らしい水族館が、もっともっと増えると良いな。と思いました。
( 2005/01 )
浜口 哲一

文一総合出版

2009/05
18 x 11 x 1 cm
1,260
オススメ度 : ○
  ビーチコーミングには必携

わずか80ページほどの薄い本ですが、内容は充実しています。様々な海辺の漂着物を豊富なカラー写真で紹介しており、実際にビーチコーミングに行った際などに、「これは何かな?」と思う疑問に答えてくれるでしょう。大変役に立つ本だと思いますから、是非実際に海に出掛ける際に、ポケットの中に入れておいていただきたいですね。
また、拾って楽しい貝殻や生き物の遺骸などが紹介されているだけでなく、それ以上に様々な人工物の紹介にも力が入れられているのもすばらしいところです。ビーチコーミングを楽しみながら、漂着ゴミ問題に関する知識も得られるようになっています。
『二つのゴミ袋運動』のサイトの開設の後を追うようにしてこんなに素晴らしいビーチコーミングのガイドブックが出版されたのも、何か一つの“縁”という気がします(笑)
( 2009/05 )
眞 淳平

岩波ジュニア新書

2008/07
新書
819
オススメ度 : ○
  「海ゴミ問題」に関する入門書として最適

著者の眞淳平さんは、中公新書の『海ゴミ』の共著者のひとり。『海ゴミ』も内容の多くは眞淳平さんが執筆していますので、この一冊は、上記の『海ゴミ』の中学生向け版と考えたら良いのかもしれません。
「岩波ジュニア新書」は中学生程度の読者を想定した新書のシリーズですが、どれも内容的には非常に充実した書籍ですので、馬鹿には出来ません。むしろ大人であっても、環境問題などに全く馴染みのない方が海ゴミ問題の「入門書」としてお読みになるには、こちらの方がお勧めでしょう。大人向けの一般書籍よりも丁寧な解説がされていますから、却って分かりやすいのです。
「中学生向け」という“見かけ”に騙されて、大人の多くが避けてしまうのは本当にもったいない。是非沢山の方に読んでいただきたいと思います。
( 2009/05 )
小島 あずさ
眞 淳平子

中公新書

2007/07
新書
861
オススメ度 : ○
  海ゴミ問題に関する「基本」の一冊

著者のひとり、小島あずささんはJEAN/クリーンアップ全国事務局の代表。海岸への漂着ゴミ問題を調べていると必ず名前が出てくる人です。
海ゴミ問題の現状から問題点、行政の対応などまで、海ゴミ問題の全般について、幅広くレポートされており、海ゴミ問題を知る上での「基本」となる一冊です。一読をお勧めします。
( 2009/05 )
西野弘章

つり人社

2008/07
新書
¥1,575
オススメ度 : ○
  「食べる」ことが取り上げられている、稀有な海遊びガイド

釣り専門出版の「釣り人社」から出版されている「つり人最強BOOK」シリーズの中の一冊ですが、内容は釣りに限りません。ビーチコーミングだけでなく、生物採集からアウトドアクッキングまで、家族みんなで海辺で楽しく遊ぶためのノウハウが満載された本です。
中でも「食べる」ことを視野に入れた内容は、一般的な自然体験の本とは一線を画したものとなっています。
一般の書店には置いていないことが多いかもしれませんが、是非一度、ご覧いただきたい本です。
( 2009/05 )
藤原祥弘
江澤洋

小学館SJ・MOOK

2008/04
25.8 x 18.2 x 1.4 cm
¥1,260
オススメ度 : ○
  BE-PALらしいオシャレ感。意外にも?(^_^;;内容は充実

ビーチコーミングについて詳しく説明してあるだけでなく、磯遊びや釣り、スノーケリングなどまで、海での遊びについて幅広く紹介されています。海辺での安全管理や危険生物などについても一通りの解説がされていますから、海へ遊びに行く前に、一度目を通しておくと安心です。
気軽に読めるムック本ですが、思った以上に充実した内容です
( 2009/05 )
長谷川孝一

山と溪谷社

2003/05
25.4 x 18.6 x 0.4 cm
¥1,680
オススメ度 : ○
  海での自然体験のための、手軽な一冊。遊びを深めるために

海を愛する子供たちと大人たちのために、海辺で楽しく遊び、学ぶための様々なプログラム(自然体験プログラム)を紹介している本です。ビーチコーミングについて、10ページにわたって、写真入りで紹介しているほか、様々な海辺での遊び方に加えて、自然体験プログラムの設計方法や安全管理なども説明されており、子供も大人も、海に遊びに行く前に、一度目を通しておくと良いと思います
( 2009/05 )
岩崎 哲也

文一総合出版

2005/07
20.6 x 14.8 x 1.4 cm
¥1,890
オススメ度 : ◎
  こんな生き物たちの観察はつまらない?それとも面白い?

たいへん面白いです。読んでいるとワクワクして、すぐにでも磯に出かけて採集・飼育をしたくなります。が、…。
そんな風に感じる人間は、今の世の中一般の社会人では、100人に一人もいないでしょうねぇ…(苦笑)。

何しろ、本書に登場する生き物は全て、我が国のほとんどの磯でごくありふれた普通種ばかりなのです。観賞魚店などで販売されているカラフルな熱帯魚などは登場しませんし、多くの人には興味も感心も引かないような、地味な生き物ばかりです。(さすがは文一総合出版!笑)

ところがそんなありふれた磯の生き物たちに注がれる著者の目は、あくまでも好奇心と愛情に満ち満ちています。多分、そうした生き物たちが大好きなのです。そして大多数の大人たちが「ありふれたつまらないもの」として何の注意も払わないような生き物たちでも、それらを自ら採集し、じっくりと観察を続ければ、そこにはやはり驚くべき、素晴らしい生き物の世界が広がっていることを、この著者は良く知っています。その観察と解説は細かく、幅広く、そして深く、何しろ一部の専門書やWEBサイトなどを除けば、イソスジエビやヒライソガニなど、磯の普通種の幼生飼育の方法までが掲載されている書籍など、私はかつて目にしたことがありませんでした。もう脱帽する他にはありません(笑)。

磯の生き物を見つめる著者の視線は、小さなカニの一挙手一投足にも驚きの歓声を上げる子供たちと同じものなのでしょう。その子供たちの目線のまま、十分な大人の知識を蓄えた著者が、我々を磯の生き物の飼育と観察とに案内してくれてるのです。磯の生き物の飼育に少しでも興味を持った人には、これ以上の書籍はありません。この夏には是非、出来るだけ多くの子供たちと大人たちにも磯に出掛けてもらい、その魅力に触れてもらいたい。心からそう思います
( 2010/05 )
   
自然保護・環境保全関連
 
鬼頭 秀一

ちくま新書

1996/05
新書
798
オススメ度 : ◎
  日本人の伝統的自然観の上に、人と自然との関係を問い直す

自然保護や環境保全への注目が高まっているのは実に喜ばしいことなのですが、どうも現在の世の中を見渡すと、人間の社会と自然の環境、自然の生態系とを全く別のものと考えて、「あちら立てればこちら立たず」という、二者択一の関係で捉えがちなように感じます。これは元々、欧州のキリスト教文明の自然観がそのような性格を持ち、続くアメリカ文明の中で更に強化されたものではあるのですが、ところが、そのような「二者択一」の捉え方では、結局、自然環境を守るためには人間などは滅亡してしまうのが一番だと言うことになりますし、逆に人間社会の発展のためには、自然がなくなるのは避けられない。という話になってしまいます。つまり、そのような「二項対立」の図式で考える限り、人間社会と自然環境との間に、幸福な未来は実現な出来ないんですね。

そうした問題意識から、本書の中で著者の鬼頭先生は、そもそも自然環境と人間社会とを、対立する二つの存在と考えること自体に疑問を投げかけます。そして現在の人間社会と自然環境との間で起きる軋轢は、人間社会の全てが、実は今現在も自然の生態系のサービスからの恵みに支えられ、その基盤の上に成立しているにも関わらず、都市に住む大多数の生活者と自然との繋がり(リンク)が切れ離されて、その繋がり(リンク)が実感できなくなっているところにあるのではないか。と指摘します。(その典型が、「切り身の魚が海で泳いでいると思っていた。」という笑い話なわけです。笑)
そして繋がりが見えなくなった結果、我々には、自分自身の行為や生活が自然環境に与えている影響を感じることが出来なくなり、そのために、自然資源の過度な利用や乱獲、あるいは環境汚染が抑制されないのではないか。それが本書における、我々の現状理解ということになります。

そしてもしそのような問題設定が正しいのであれば、これから人間社会と自然環境との間に、持続的で幸福な関係を作り上げようとする時に、我々にとっての課題はまず、その切れた「繋がり(リンク)」を繋ぎ直す(宗教的&文化的側面と社会的&経済的側面の両面から)ことになります。これが鬼頭先生の主張する「社会的リンク論」の概要で、法的規制のような強制的な手段で自然破壊を抑制しようとするのではなく、人間の社会と自然環境との繋がり/関わりが深まり、人間がその繋がり/関わりをより深く認識することで、やがて自然と人間社会との間に望ましいバランスと関係とが回復されるだろう。と考える訳です。この発想の基盤に、そもそも自然と人間社会とが幸福な関係を保った中で育まれて来た日本文化の伝統があることは、言うまでもありません。

我々はつい、自然保護や環境保全を「どうしたら自然を守れるか。環境を保てるのか。」という技術論や制度論として捉えがちですが、やはり技術論も制度論にも限界があります。そもそも社会を形作る人間の考え方が変わらなければ、技術も活用されませんし、制度も守られないからです。
技術論も制度論もそれだけでは決して、人間社会と自然環境との間に幸福な未来を約束しないわけで、ではそのために私たちは、自然と人間との関係をどのように考えるべきか。言い換えれば、どのような自然保護/環境保全思想を持つべきか。大いに考えさせられました。

『自然保護を問い直す』という書名からは、下手をすると昨今流行の「反温暖化本」の仲間のような印象を抱かれがちだと思いますが、大衆受けを狙ったそのような著作とは全く異なります。(そもそも出版がこちらの方が早いのですし…(^_^;;)
「社会的リンク論」の考え方は、日本独自の環境思想としての“里山”の再発見にも繋がっていますし、西欧のモダニズムの限界を超えて、自然との共生の中に存在する人間社会の実現(再生?)の可能性を指し示してくれるものとして、極めて重要なものでしょう。
正直、決して読みやすい本ではありませんので、「万人にお勧め」と言うわけには行かないかもしれませんが(^_^;;、苦労しても読む価値のある一冊です
( 2006/06 )
児玉 浩憲

ソフトバンククリエイティブ
サイエンス・アイ新書

2009/11
新書
1,000
オススメ度 : ◎
  21世紀を生きる現代人なら必読。COP10を控えた日本国民への嬉しい贈り物

ボリューム、価格、内容、どれをとっても、これまで生態学や生物多様性という言葉に馴染みのなかった人に、「まずこれを読んでみたら?」と、自信を持って勧められます。もちろん、専門書ではありませんから、専門家が読んで感心するような“深み”はありませんが、広範な内容を分かりやすく、簡潔に、しかもところどころに“トリビア”的な要素も織り交ぜて飽きさせることなく(笑)、イラストもたっぷりの新書にまとめ上げたのは、さすがに新聞社の科学記者としてキャリアを積んだ著者ならではの力量でしょう。

名古屋での生物多様性条約COP10開催も近づいて、生物多様性や生態系・生態学に対する一般の関心も高まりつつあると思いますが、この本以前には、中々、一般向けに、生態学の基礎から始めて現在の我々の喫緊の課題まで、一気に俯瞰させてくれるような書籍は見当たりませんでした。長く待ち望んでいだ一冊が、ようやく上梓されたという感慨を覚えます。

また我々、人類の過去から現在までの暮らしや社会が、野生の生き物同士の繋がりにどのような影響を及ぼしたのかを丁寧に説明しているにとどまらず、逆に我々の暮らしや社会が、現在もまだ、その生き物同士の繋がりに支えられて成り立っているのだという本書の指摘は、非常に重要なものでもあります。単に比喩的表現としてではなく、また宗教的な意味でもなく、一見、自然の生き物などとの関係はなさそうな都会に住む現代の我々の説かつも、遡っていけばその基盤は今も、自然の生き物たちの働きなしには成り立たないからです。この本はそうしたことを気付かせてくれます。

最終章がやや“尻切れトンボ”に終わっている恨みはありますが、そのような視点から現在の世界の生物多様性保全への取り組みや温室効果ガスの削減への努力なども紹介されており、内容はいわゆる「生態学」の範疇にはとどまりません。ジャーナリストならではの視点が活かされていて、この本の際立って優れた部分だと感じます。

生態学や生物多様性に関する基礎知識を持つことは、「環境の世紀」と呼ばれる21世紀を生きる我々にとって、今後、社会生活を営む上で必須のリベラルアーツ(一般教養)となるに違いありません。私は全ての国民に、一度はこの本を読んで欲しいと思います。真に持続可能な社会づくりは、そのような努力から始まるだろうと思うからです
( 2009/12 )
毎日新聞科学環境部

岩波ジュニア新書

2005/04
新書
819
オススメ度 : ◎
  野生生物と人間社会との新しい関係を模索する、貴重な事例集

野生生物と人間社会との新しい関係を模索する、貴重な事例集です。「ジュニア新書」だから中学生程度の子供に向けた内容かと思うと、とんでもない。毎日新聞に2003年5月から2004年12月まで掲載された同名の連載記事をベースにしているだけに、「中学生程度でも十分に読んで理解できる文章」ではありながら、この本の価値を正しく認識できるのは、むしろ年齢を重ねた40代以上の人間なのではないでしょうか。

この本を読めば、今、我々が住む日本列島の上で、人間社会と野生動物との間にどんな問題が起こり、どんな関係が失われ、またはどんな関係が新たに作り上げられつつあるのか、良く分かります。日本全国の“現場”を実際に取材した努力の成果が集められた、格好の事例集です。

いたずらに“絶滅の危機”などを煽ることもなく、声高に“環境問題のウソ”を言い立てるポーズも取らず、それぞれのケースに対して是々非々の立場で、問題点を冷静に整理して行く取材姿勢に好感が持てます。誰にでも読める平易な文章の向う側に、環境や野生生物の問題を取り上げる際にありがちな扇情的な報道とは距離を置く、真摯なジャーナリストの後ろ姿が見えるのです。

取り上げられている生き物はメダカからツキノワグマまでと幅広く、全部で38章。山、里、海、都会、農村、etc…と、取材の地域にも偏りがありません。人の社会と野生動物との間に繰り広げられている、不思議で魅力的な関係の物語を面白く読み進むうちに、野生生物と人間社会との間に起きる問題が、決して“田舎”や“山村”だけの問題ではないことにも気付くことでしょう。ツバメやスズメなど、身近で良く知っているはずの生き物の、実は意外に知られていない興味深い生態についても学ぶことが出来るのは、大きな魅力の一つです。

この本は、「子供の頃には身近に色々な生き物がいたのに、最近ではすっかり目にしなくなったなあ…。」と思う大人たちにこそ、是非読んでもらいたいと思います。そしてまず大人たちが読み終えたら、次には自分の子供たちにも読ませてあげて欲しいのです。そうした努力の積み重ねがやがて、子供たちの世代において、野生生物と人間社会との間に、今より少しだけ幸福な関係を実現することに繋がることだろうと思うからです。
( 2008/07 )
瀧澤 美奈子

文春新書

2009/02
新書
788
オススメ度 : ◎
  敢えて流行の“温暖化の真偽”を問わず、「その先」や「その周辺」を論じた良心の書

細かなデータの出典や論拠等は(おそらく意図的に)省略されていますので、未だに“温暖化の真偽”を議論したい向きには、全く物足りないと感じられる内容でしょう。しかしこの本の意図は、むしろ“温暖化の真偽”のような枝葉末節へのこだわりを乗り越えるところにあります。そのために著者は、地球温暖化(気候変動)に関する様々な問題や対策に関して、現時点での「主流の仮説」を中心に、丁寧に、分かり易く説明すると共に、その反対意見までを幅広く紹介していますので、一度でもこの本を読んでおけば、地球温暖化(気候変動)やその対策に関して、俯瞰の視点から、“全体の見取り図”を描けるようになるでしょう。

いわゆる“反温暖化論”も一通り紹介していますから、一度でもこの本を読んでおけば、センセーショナリズムを狙った「反温暖化本」に惑わされることも減るはずです。また逆に、「マイバック・マイ箸」や「チーム−6%」などの事例も取り上げて批判的な評価も行なっていますので、安易な“エコ・ミーハー”にとっても“苦い良薬”になるでしょう。単に読みやすいだけでなく、俯瞰的で中立的なスタンスやサイズ、ボリューム、価格も含めて、様々な意味で地球温暖化(気候変動)問題の入門書として最適であると言えます。

そしてこの本の何より優れているところは、“著者としての一つの結論”を安易に押し付けないところにあります。実に歯切れが悪く、読後の爽快感もないのですが(苦笑)、地球温暖化(気候変動)のような複雑な問題に対しては、むしろそのような態度こそが真摯なのです。例えば武田邦彦や池田清彦のように、人の目を引く安易な“結論”をポンポンと並べてしまえば、「何か分かりやすい結論を与えて欲しい。」と願う大衆の欲望は満足させられますし、事実、今大いに売れている本はそのような“温暖化懐疑論”の本なのですけれども、現在の我々に必要な態度がそんなものでないことは、今さら言うまでもありません。むしろ我々は、結論を出せず、断定もできない居心地の悪さに耐えながら、それでも現在の自分の責任で判断を下し、自分の意思で将来を選び取ることを求められているのです。

私たちが今、そのような立場に立たされている事を、この本は教えてくれます。出来るだけ多くの人に読んで欲しいと思う所以です。
( 2009/04 )
松井 正文

小学館101新書

2009/12
新書
777
オススメ度 : ○
  社会人として、もはや必要不可欠な知識

本書を通読して、まずしみじみと感じたのは「人間の愚かさ」です。

第3章の章題がそのまま、「人間が招いた外来種問題」とされていますが、そもそも「外来種」とは(意図的であれ偶然であれ、直接的であれ間接的であれ)本来の生息地以外へと人為的に移入させられた生き物なのですから、あらゆる外来種問題は全て、人間が自ら招いたものなのに他なりません。本書では33の外来種を取り上げて、移入の経緯や問題点、対策の現状や今後の課題等を紹介していますが、それはつまり、33パターンの「人間の愚かさ」の陳列でもあるのです。

それにしても外来種移入に掛かるコストに比べて、その駆除や本来の生態系回復に必要なコスト(人的・時間的・経済的)の、なんと莫大なことか。(しかも明治以来の移入外来種が惹起した問題で、完全に解決されたものは未だに一つとてないのです!)

かくて、過去の少数の愚か者の金儲けや、あるいはほんの小さな気まぐれが、時間を経て未来にわたる人類共通の財産を脅かし、やがてその後始末のために国民全体の税金や時間が大量に費やされることになります。それは現時点では我々の共有の未来を守るために必要不可欠であり、むしろ今後より積極的に支出すべきコストではあるのですが、その実大半は、何十年か前の愚か者の小さな行為さえなければ、本来必要なかったはずのもの。そう考えると、この愚かな“マッチポンプ”は、あまりにも空しいものではないでしょうか…。

そして今、過去の愚か者の所業の結末を知る以上、現在の私たちが将来の子孫たちから「愚か者」の誹りを免れるためには、素直に過去の行為に学ぶしかないでしょう。一般向けに書かれた本書には、専門家が見れば物足りない部分もあるのでしょうけれども、実際に外来種問題を引き起す“犯人”の大半は何も知らない一般人なのですから、今、専門家の方々により強く求められることは、同じ専門家同士の知識を高め合うことだけではありません。むしろ知識の足りない我々のような一般人に対する啓蒙や啓発にこそ、力を注くべきだといえるでしょう。その意味で、本書の上梓は実に意義深いものです。

本書の内容であれば、中学生か、あるいは小学校の高学年でも十分に理解できるはずです。こうした書籍が学校教育の中でも活用されて、やがてこの列島の上に住む人間たち全ての一般教養として普及することを望みたいと思います。

況や社会人をや。必読の書です。
( 2010/01 )
高橋 敬一

祥伝社新書

2009/03
新書
798
オススメ度 : △
  著者の主張に共感はするものの、ややバランスを欠いている

私は5年ほど前から環境教育関連NPOなどに参加して、環境保全活動の現場に立つことも増えているのですが、「自然との共生」を謳い文句にする現在の自然保護運動の多くを、「自己中心的な利己的欲望」と断罪する著者の主張には、深い共感を覚えます。特に「他人に自分の自然観を押し付け、自分に不都合な悪い変化はすべて糾弾しようとする」などの言葉は、保護・保全の現場でしばしば見つかる、近視眼的な“環境保護原理主義の皆さん”に、是非一度聞かせてやりたいと思うくらいです(^_^;;。自然保護・保全に関わる人は(私自身も含めて)、一度はこの本を読んで、自らのある種の“上から目線”を反省した方が良いんじゃないでしょうか。

しかしこの本には重大な欠点がいくつかあって、その一つは、著者の主張を裏付けるエビデンスとしての事例紹介がほとんどないことです。著者の主張が決して的外れなものばかりだとは思わないのですが、その一方、自分が経験した少数の事例を全体に引き伸ばして、「そもそも○○なんてものは…」と主観的な批判をするのであれば、そんなものは酔っ払いの愚痴と変わりません。他者批判をするのであれば、まず自分自身に厳しくなくては。感情的な反論に対抗するには、まず客観的なエビデンスを提示することを怠ってはいけないと思うのです。

そしてもう一つ、更に大きな欠点は、自己愛の発露としての自然保護活動を否定したいという思いが強すぎるあまり(?)、本書が読者を、自然保護思想そのものや自然保護活動全体の否定へと導きかねないことです。私が感じるには、著者本来の主張は、「環境破壊(改変)は人間の本能に基づく行動であり、環境保護活動すら、その人の利己的活動に過ぎない。」ということを十分に認識した上で、「自然保護活動の意義や、あり方を問い直せ。」という辺りなのだろうと推察するのですが、本書を読んだ多くの読者はむしろ、「自然保護なんて無意味だ。どんどん自然破壊して良いのだ。」と感じてしまうことでしょう。もちろん、私には著者の本意は分からないのですが、そのように読んでしまうと、折角の本書も、最近流行りの「○○のウソ」本の類に思われてしまいます。
(当然、本書のタイトルを『「自然との共生」というウソ』にした点には、武田邦彦などの「○○のウソ」本のヒットにあやかろうとした意図が見えますから、その点ではもちろん、著者が批判されても仕方がないのも事実なのですが…。)

著者の主張には共感しつつも、これらの欠点を考えると、私としてはとても、気軽に他人に薦めることは出来ません。環境問題や保護・保全活動に関するリテラシーが高く、かつ公平で自由な考え方のできる方にのみ、お勧めしたいと思います
( 2009/08 )
槌田 敦

宝島社新書

2007/06
新書
756
オススメ度 : ×
  本来、既に「歴史的文書」として忘れ去られる「べき」本

挑発的でキャッチーなタイトルの割には、内容のほとんどは、いわば“当たり前”で、普通の主張。取り立てて目新しいところはありません。それも当然で、そもそも、最初の出版(1992年)は15年以上も前の本なのです。当時としては新しい視点や、有益な部分もあったのでしょうけれども、残念ながら(?)、少なくとも現時点で真面目に環境保全に取り組んでいる人々は既に、この著者が設定した問題意識の“向こう側”で苦闘を始めています。ですから、新書化するに当たっての書名は正しくは、『環境保護運動はどこが間違っているのか?』ではなく、『どこが間違っていたのか?』とすべきだったではないしょうか。

「CO2による地球温暖化否定説」等の、いくつかの点を除けば、「何でもリサイクルすれば良いというものではない。」とか、「科学技術で環境問題は解決しない。」とか、著者の主張は極めて常識的な範囲にとどまります。従って賛同できる点も多いのですけれども、この本の大きな欠点は、特に前半、善意の人間の発言や行動を否定するところから文章が始まるので、読んでいて何とも不愉快な気持ちになってしまう点です。わざと挑発的な書き方にすることで、読者の興味を引こうとしているのだろうと思うのですが、読者からの“ウケ”を狙ったパフォーマンスは、いかにも見苦しく感じます。

ただ、気をつけなければならないのは、本来は、著者自身が「まえがき」に書いているように、「歴史的文書としての価値しかない」はずのこの本を、何かとんでもなく新しく、素晴らしいもののように感じてしまう人が、現在の世の中にはまだまだ沢山いるということです。それだけ、環境問題に真剣に取り組んでいる人々は、今の世の中から“浮世離れ”してしまっている。そういう部分への反省を込めて、読んでいただければ良いと思います。
( 2009/04 )
長谷川 伸介

幻冬舎ルネッサンス新書

2009/10
新書
880
オススメ度 : ××
  あまりにも出来の悪い“まがいもの”

「エコが地球を滅ぼす」という書名と、「こんなに簡単に環境破壊は止められる。」という、帯のアオリ文とのギャップが気になって購入したのですが、読み始めて5分ばかりで失敗を確信しました(苦笑)。

まず「はじめに」を読んだだけでも、言葉の定義や使い方がずいぶん乱暴で無頓着。「文章を書くという行為に対する態度がいい加減な著者だなあ…。」と、不安を感じたのですが、第一章の本文5行目でいきなり「波動」が出て来たのには、正直、参りました(苦笑)。「波動」という物理用語を用いながら、その言葉の定義を恣意的に差し替えて行くことで、自らの妄想(か、せいぜい仮説)に過ぎない事柄を、あたかも既に証明された事実であるかのように語って行くのは、これは“似非科学”の典型的な手法だからです。

それでも「せっかくお金を出して買ったんだし…。」と、何とか我慢して読み続けようとは思ったのですが、使われている言葉の用法や定義が、一つ一つ余りにも恣意的、かつ適当(いい加減)で、批判的に読むことにすら疲れてしまい、ついに耐え切れず、20ページまで、第一章を読み終えたところで放り出してしまいました。ですから結局、最後まで読んでいないのですけれども、正直、こんなことは私も初めてです(苦笑)。

はっきり言いますが、これは科学でもなければ哲学でもなく、宗教ですらありません。それらの用語を適当に捏ね混ぜて一塊りにして作りあげられた、しかもかなり出来の悪い“まがいもの”。読むだけでも目が汚れるように感じます。

「こんな本でも題名に『エコ』とつければ1,000円近い値段で売ることが出来るのか。」と思うと、出版した版元に文句の一つも言ってやりたくなるのですが、それよりもまず、タイトルと帯に騙された自分が情けなくて仕方がありません(苦笑)。「せめて10ページ立ち読みして、内容を確かめれば良かった。」と思いますが、賢明なる読書子の皆様には、「決して手を出すな。」とご忠告申し上げたいと思います。

なお、その後確認しましたら、この「幻冬社ネルサンス」というのは、自費出版の専門会社のようです。通常の出版物と同列に並べられていましたので、出版社/編集者によるそれなりのチェックを経た上での書籍かと思っていたのですが、そうではないことが分かりました。つくづく情けないと思います。
( 2009/11 )
鷲谷 いづみ

岩波ブックレット 785

2010/06
21.2 x 15.1 x 0.8 cm
¥ 630
オススメ度 : ○
  コンパクトな概説書。掘り下げはやや浅い。むしろ「復習」にこそ有益。

生態学の基本から最近話題のグリーンウォッシュまで、広範で複雑な生物多様性保全に関連する話題を網羅して、わずか60ページのボリュームにまとめたことは、賞賛に値します。さすがは「保全生態学の第一人者」と呼ばれる著者ですね。

ただこれが本当に「入門」かと言うと、その網羅性ゆえに却って疑問符もつきます。この本を読んで全くの初学者が生物多様性の大切さを実感できたり、その保全を“我がこと”として感じるようになるかというと、難しいでしょう。一つ一つのテーマの掘り下げが浅いものにならざるを得ないためですが、むしろ何か一つを取り上げて、その奥深さを見せる部分があったほうが、初学者にとっては魅力的だったような気がします。(ただしそういう構成にした場合には、とてもこのボリュームには収まらなかったでしょう。)

私にはこの本は、歴史の教科書の巻末についてくる年表のように感じられました(^_^;;。全体像を把握するためには非常に役立つ。しかし年表を読むだけでは歴史を学んだことにはならず、むしろある程度学んだ人間の復習にこそ有益。この本も、そのような存在なのだと思うのです。

なお、話の本筋からは少し外れますが、私の印象に非常に強く残った部分がありましたので、引用・ご紹介しておきます。

著者は日本の若い世代が自然とふれあう機会が減り、学校教育でも自然史が軽視されてきた現状を踏まえて、

> そのため、生物多様性を具体的に認識し、また、適応戦略を読み解く眼力を備えた人材が少ない。

と書きます。

> それは、日本社会が抱えているさまざまな「能力」喪失の中でも、もっとも深刻な問題の一つではないか

と指摘した部分は、本書中で最も、私が共感した部分でした。そしてその少し後の、

> 昨今、地球温暖化や外来種問題に関して、必ずしも十分な専門的知識を持たない「専門家」の危機の否定・軽視の発言がもてはやされる傾向がある。
> 人々がそれらに同調しがちなのは、まひした心に、それらが心地よく響くからだろう。


という指摘と共に、是非、心にとどめておきたいと思いました。。
( 20010/07 )
河合 雅雄
林 良博

PHPサイエンス・ワールド新書

2009/10
新書
¥ 924
オススメ度 : ○
  類書とは一味異なるユニークな視点が面白い!

いわゆる「野生生物問題」の事例集としてのみで見るのであれば、上にも紹介している岩波ジュニア新書の『生きものたちのシグナル 』など、他にも類書は多くあります。それに比べると本書の事例は山林のサル、シカ、クマ、イノシシ、それに外来のアライグマとヌートリアだけですから、むしろ広がりには欠けています。(ただし各々の分析が詳細ですから、非常に勉強にはなります。)

しかし本書の最大の価値は、これらの野生生物の問題を、単に現在の我が国の自然環境や社会の問題として取り扱うのではなくて、縄文時代に遡る我が国の生活文化の歴史的な流れの中に位置づけて、改めてその意味を問い直し、さらに野生動物を中心に考えるよりもむしろ、その野生動物に相対する地域住民の心的内面へと踏み込んで考察してゆくところではないでしょうか。通常、野生生物問題に関しては、自然科学系のアプローチが中心になって、社会学的な視点が重ねられて語られることが多いと思うのですが、本書では特に、野生生物に相対する人間の側の文化や心理を掘り下げて行くことで、この問題を我が国の文化の問題として、より一段深いところに位置づけようとしているように感じられます。著者の河合雅雄さんは、京大人文研を中心に日本の霊長類学をリードし、独自の「今西進化論」を唱えた今西錦司さんのお弟子さんですが、野生生物を入り口に、むしろ人の心や文化の問題に迫って行こうとするのは、さすが京大霊長研の伝統が生きているところだな。という感じもします(笑)。

本書の中で、いわゆる「里山」を「人と動物との緩衝地帯」と捉えるのではなく、むしろ「入会地(=人と野生動物とが共有して利用する場所)」と位置づける発想は欧米にはないもので、我が国独自の価値観・自然観に基づいた、新しいワイルドライフ・マネジメント理論への可能性を感じさせてくれます。「獣害を契機に地域に活力がよみがえった」という事例が増えることを期待すると書く本書は、単に野生生物の問題が起きる「原因」が複雑で、多様であることを教えてくれるだけではないのです。その「解決」のあり方もまた実に多様で、様々な可能性があることを示唆してくれます。極めてユニークで、また有益な本だと思います。
( 20010/04 )
根本 正之

岩波ジュニア新書

2010/05
新書
¥ 819
オススメ度 : ○
  むしろ大人むけ。生物多様性保全に新しい道を指し示す!

植物生態学を専門とする著者の主張は納得性が高く、非常に勉強になります。一言で「生物」といっても、動物と植物とでは生きるための仕組みや競争のルールが違う。だから同じ「生物多様性保全」といっても、動物における多様性と植物における多様性とは、その意味や保全手法のあり方も異なるのです。ところがついつい、私たちは、動物のケースを念頭に置いて「生物多様性保全」を語ることが多いのではないでしょうか。それではつまり、本当の意味の「生物多様性保全」にはならない。片手落ちであることに私は気づきました。

しかし一方、この本が果たして「ジュニア新書」として、中高校生程度の初学者向けかと言うと、そこにはまた大きな疑問があります。むしろ「応用編」なのではないかと、私には感じられてなりませんでした。

例えば、「メヒシバはC4植物で…」などという、生物関係の専門を専攻していなければ、学部学生でも理解しているかどうか怪しい(?)言葉が説明なしに使われるのはまだ許容するとしても(←いや、この本を読む場合、それくらいは許容範囲なのです。(^_^;;)、例えば著者は、「新しくつくられた半自然も捨てたものではない」と書き、僅か数ページ後に、「堤防やゴルフ場内であっても、一度、タネを撒いたり植えつけたりすることで…(中略)…それが定着してくれるなら問題ないと思います。」などと書いてしまいます。するとそこだけ読めば、それこそ、著者自身が指摘しているように、「野の花を植え込んで花壇さえつくれば、都市の中に生物多様性に富んだ自然が出現した、と思いたくなる日本人の自然観」を、助長することになりかねませんよね。

もちろん、本書をきちんと読めば、著者が「花壇で良い」などと考えていないのは明らかになります。しかし他にもところどころに(学問的に正確であろうとするが故でしょうか?)例えば農薬の説明箇所や帰化植物の説明箇所などにも、初学者には真意が伝わりにくいだろうと感じたり、場合によっては曲解されかねないと思う部分が散見されました。

とは言え、日本人特有の視野の狭い自然観から惹起される我が国の現在の生物多様性保全活動の問題点の指摘などは、まさに正鵠を射たものだと感じますし、既にかつての水田を中心とした農村の生活には戻れない現代の我々が、これからの日本の新しい生物多様性保全を考えるに際しては、間違いなく有益な提案に満ちてもいます。「ジュニア新書」ではあるのですが、「中高校生向けだろう?」などと馬鹿にせずに、ある程度まで生物多様性保全にリテラシーのある大人こそ読むべきだし、むしろそういう人にこそ、役立つのではないかと思います。ボランティアなどで活動している人には是非読んで欲しい。私はそう感じました。
( 20010/06 )
足立 直樹

ワニブックスPLUS新書

2010/02
新書
¥ 840
オススメ度 : ○
  地球環境問題が、実は自分自身の暮らしに密着した生活問題であることを知るために

書名だけを見ると、正直、ちょっと手を出しにくいように感じられると思うのでいすが(^_^;;、まずはとにかく本書の序章、『2025年、最悪のシナリオ』だけでも読んでみて下さい。そこに描かれた近未来(2025年)の日本社会の姿に接して、「こんな馬鹿な!」と笑うか、「この程度なら、まだ“まし”。」と感じるかで、あなたの環境リテラシーが分かることでしょう。(ちなみに、私自身では、「この程度なら、まだ“まし”。」と感じましたが…(^_^;;)。

「地球環境問題」と言ってしまうと、日本の国民の多くはまだどこか他人事で、自分の日々の生活とは直接の関係はないかのように感じています。ところがほんの15年ばかり未来を想像するだけで、それは私たちの暮らしに密着した、「生活問題」に他ならなくなるのです。この本はまず何よりもそのことを訴えています。

つまり本書の最大の特徴であり、また優れた部分は、「序章」に象徴的なように、地球環境問題という現在の我々には直接は分かりにくい問題を、徹底的に我々の生活の問題へと引き寄せて考えようとする姿勢にあります。地球環境問題の現状報告や対応策の事例紹介などであれば、類書は他にも数多ありますが、もし我々が真剣に地球環境問題に相対そうとするならば、大切なのは知識の「量」ではありません。むしろそれらが今の自分の日常とどのように結びつき、どのように影響を与えているのか、また与えられているのか、その想像力を働かせることが何よりも重要なのですから、本書を通じて著者が一番に訴えたかったのは、まずそのことだったのでしょう。

従って本書を読んで、地球環境問題に関する「知識」を得ようとするのは、“間違い”とは言わないまでも、“十分な読み方”とは言えません。むしろ読者は本書を通じて、地球環境問題を自分自身の問題として考えるようになる。その実践のための契機とすべき本だと思います。

ただし、『あなたの欲望が地球を滅ぼす』という書名は正直、下品で、本書の内容に相応しくありません。大衆受けを狙った、昨今流行りの安易な警告本や、あるいは例の武田何某などのゴシップ本(苦笑)と同じ仲間に誤解されてしまう可能性が高いように思います。実際の内容はすこぶる真面目で、また分かりやすい本でもあるのに、ある種の過激さを狙ったに違いない書名は、良識ある人々から本書を遠ざける最大の欠点になってしまった。そんな風に私は感じます。
( 20010/03 )
朝日新聞特別取材班

朝日新書

2010/03
新書
¥ 735
オススメ度 : ◎
  これが環境対応のリアリズム

仕事中などについうっかり、「環境問題に関心がある」などと発言すると、いまだに、「お金儲けに興味のない、良い人」のように思われることがあります。我が国ではビジネスの第一線で活躍している人にも、今の世界で環境対応こそが最もHOTで最も激しいビジネス上の競争テーマだということが、十分に理解されていないのです。
また「日本の環境対応技術は大変優れていて、今も世界トップレベルの環境先進国だ。」と誤解している人は、これもまた意外なほど沢山います。彼らはかつて、我が国が環境先進国だった時代の記憶のまま、この10年ばかり呑気に惰眠をむさぼってしまつた、童話のウサギなのでしょう。

本書はそのような、善良にして愚鈍な“ウサギ”たちに衝撃を与える、世界と日本との環境対応の実態を取材したレポートです。環境対応を人々の善意や倫理、おるいはイデオロギーの問題に過ぎないと勘違いしている人は、世界のあちこちで既に、本書が「戦争」と名づけた激しく、厳しい競争が始まっていることを知って、少し焦った方が良いでしょう。これからの世界では、環境対応こそがICTの発展以上に根本的に、経済や社会のルールを変えて行くのだし、もしこれ以上、その変化に立ち遅れてしまえば、我が国は政治面だけでなく経済面においても、再び二流国家・三流国家になり下がってしまう。既に世界は、そうした方向に動き始めているのです。

日本が21世紀にも経済大国として世界に存在感を示し、国内においても現在の豊かな社会を守りたいと考えるのならば、我々にはもはや「環境保全か経済発展か」などという、呑気なテーマ設定で悩んでいる余裕はありません。民主党政権誕生の半年後というタイミングで上梓された本書が、政権交代の是非に揺れて、より本質的な時代の変化を見逃しがちになっている我が国の人々の目を覚ます、飛び切りけたたましい目覚まし時計となることを祈りたいと思います。
( 20010/06 )
井田 徹治

岩波新書

2010/06
新書
¥ 756
オススメ度 : ◎
  「なぜ生物多様性保全が必要なの?」という素直な疑問に答える良書

生物多様性を扱う類書の多くが「生態系とは何か」という生態学的な説明に注力するのに対して、本書の最大の特徴は、そうした解説を飛び越えていきなり、「生態系サービスの経済的価値」から話を始めるところにある。ところが、そもそも生き物への関心が薄く、最近になってようやく「生物多様性」という言葉を知ったような人たちには、生態学的な解説などは、むしろ退屈な“お勉強”に過ぎないのである。それよりも、生物多様性と経済との関係や、生態系と人間社会との関係を中心に論じていく本書こそ、「なぜ生物多様性保全が必要なのか?」という彼らの素朴な疑問に答えるものであり、今まで関心のなかった人にとって最も「腑に落ちる」回答を与えてくれるものだろう。

そしてそれは逆に、今まで「生物多様性の大切さが理解されない。」と嘆いていた「生き物好き・自然好き」の人々にとっても、周囲の“一般人”との間に会話を繋ぐ架け橋になるはずだ。生物多様性保全を一部の専門家や愛好家たちの関心事に終わらせることなく、我々の社会が全員で取り組むべきテーマとして浸透させていくためには、本書のような存在が絶対に必要なのである。

本書は是非、「生物多様性なんか自分には関係ない。」と思い込んでいるビジネスマン諸氏にこそ、読んでいただきたい。本書を読めば、生物多様性や生態系サービスの維持・保全こそが、実はCO2削減/気候変動対策以上に直接的に、我々の経済や社会に、そしてご自分のビジネスに、影響を与えて行くことが想像できるだろう。

名古屋でのCBD-COP10の開催を控えて、今の社会に最も必要な良書が、岩波新書という誰にでも入手しやすい形で上梓されたことは、この上ない幸せだ。ソフトバンクサイエンス・アイ新書の『生態系のふしぎ』と共に、出来るだけ多くの人の書棚に、一人前の社会人が弁えておくべき一般教養を身につけるための参考書として、本書が並ぶことを願う。

書名から生物多様性に関する生態学的な解説を求める者には、その期待に反する内容に感じられる部分があるかもしれないが、実は「生物多様性保全」は既に、生態学(保全生態学)の範疇を超えた、政治的・経済的・社会的課題なのである。本書はそうした立場から「生物多様性」を解説した、間違いなく良書ではあるが、その点では唯一、書名を「生物多様性保全とは何か」とすべきだったかもしれない。
( 20010/06 )
花里 孝幸

新潮選書

2009/05
19 x 13 x 1.8 cm
¥1,050
オススメ度 : ○
  ヤワなのはむしろ人類なのである。だからこそ我々は、生態系を守らねばならない。

書名こそ挑発的だが内容は穏健で正統派。この書名からはまるで、「自然の営みに対しては、人間活動などは影響を与えないのだ!」とでも主張されそうだが、そんな心配(?)はいらない。

途中で脱線する「日本人論」にはやや乱暴なところがあり(笑)、また、里山や水田の生物多様性への評価には異論を唱える向きもあろうが、著者の専門の生態学に基づいた生物多様性保全の考え方は、基本的には、生態学を知る大多数の人間が同意出来るものだろう。「生態系は人類のため」というのも、一部のディープ・エコロジストなどを除けば、現在の主流の考え方である。(ただそれだけに、既にある程度、生態学を学んだ人には、この本では新しい発見は少ないかもしれない。その点は残念だ。)

しかしより大きな問題は、生態学的に見れば「当たり前」で「当然」なことが、世の中全般にはまだまだ理解されていないことで、(だからこそ書名や章題などを、実際の内容以上に挑発的にする必要があったのだろう。)本来はこのような書籍は、より多くの人が手に取りやすいよう、新書本などで出版して欲しかった。

名古屋のCBD-COP10を控え、生物多様性への社会的関心も高まっているが、生態系にも生物多様性保全にも誤解が多いのは、本書の副題の通りである。ぜひ多くの人に本書のような優れた案内書を読んでもらい、正しい認識が広がることを期待する。著者が「生態系保全は人類が生態系からはじき出されないようにすること」と書いた意味を、社会の人々全般が理解している世の中になることを願う。
( 20010/03 )
   
日本の漁業関連
 
塩野 米松

ちくま文庫

2009/11
文庫
924
オススメ度 : ◎
  凄まじいスピードで変化・発展し、そして消え行く漁業に、我が国社会の明日の姿を見る

漁師と言えば自然が相手。つい、工業化・商業化が進んだ現代日本の社会変化からは距離のある存在であるかのように思いがちだが、本書を読めばまず、それがとんでもない勘違いだと気付くことになるだろう。最近の数十年間で日本の商工業が大きく変化したのと同様、あるいはそれ以上の凄まじいスピードで、漁業もまた変化し、発展し、今やすっかり、いわば「資本主義漁業・市場主義漁業」の時代になっていたのである。

その凄まじい変化は、一時は漁師たちにかつてはあり得なかった富をもたらした。だからこの僅かな間の目まぐるしい変化は、以前であれば確実に「漁業の進歩」と呼ばれたに違いない。ところがその「進歩」の先にあったのは、もはやどんな技術革新でも贖えない、生業としての漁業の持続を不可能にする資源枯渇だったのである。
だから今日叫ばれている「漁業の危機」は、何も行政の無策ばかりが原因なのではない。むしろ他でもない漁業自身の発展と進歩、そして資本主義・市場主義の浸透とが、漁業自らを滅亡へと追い込んで来たのだ。

本書を読んでそのことを知った私には、今や歴史の黄昏に消え去ろうとしている“にっぽんの漁師”たちの後姿を、他人事として見送ることは出来ない。漁師ではない私もまた、自らの関わる商業や工業の活動を通じて、少し遅れて、彼ら“にっぽんの漁師”たちの背中を追っているに過ぎないと思えてならないからだ。

本書が最初に単行本として上梓されてから、既に10年が経つ。その間に我が国の漁業は少しでも、滅亡に向けられていた針路を変えることが出来たのか。それとも相変わらず、破滅の断崖へと一直線に、その船脚を速め続けているのか。日本の漁業の行く末に日本社会全体の未来を重ね合わせて、私は本当に背中が寒くなる思いがした。
( 2010/01 )
松井 正文

幻冬舎新書

2007/05
新書
777
オススメ度 : ◎
  元水産庁のキーパーソンの、歯に衣着せぬ現状の告発

水産庁の漁場資源課長などを歴任し、特にクジラやマグロ類の資源管理問題などでの“タフ・ネゴシエイター”として国際的にも名を馳せた著者が、水産庁を退官後、それまでの官僚としての立場を離れて、日本漁業の構造的な問題点を指摘した告発の書。つい数年前まで漁業行政の中核にいた人物が繰り出す批判は鋭く、内部告発に近い側面もある。

とにかく、マグロでもサケでも何でも良い。魚を食べるのが好きだと思う人は、この本を読むべきだ。そして自らの魚食の嗜好や魚食態度が、今や全く持続可能でないことを思い知ると良いだろう。『これから食えなくなる魚』という書名を見ると、何か特定の魚の資源危機を取り扱った本のように思えるが、ここに書かれているのは、我々・消費者の態度そのものが我が国の漁業の未来を閉ざし、やがては我が国の魚食習慣そのものを破壊しようとしているという事実、このままではやがて我が国の魚食文化全体が崩壊していくという事実なのである。

そして官僚主義に陥った我が国の漁業政策が更に、我が国の漁業を追い詰める。ビジョンを欠いた行政の無策と、その行政と結託した漁業者自身の怠慢、漁業者の努力と天然資源としての価値に見合った価格を支払うことを渋る消費者の傲慢とが、三位一体の“共同正犯”として、日本の漁業と魚食文化とを滅ぼそうとしている。本書を読めば、かつては漁業先進国であったはずの我が国がいつのまにか、すっかり漁業後進国に転落していたことを知って、驚く人が多いことだろう。

唯一、捕鯨問題に関しては、推進派の立場に偏りすぎた著者の主張がバランスを欠いて見苦しく感じられるが、その点を除けば、我が国の漁業や、ひいては我が国の魚食文化全体の危機的状況を認識するのに、これ以上の本はない。現状に危機感を抱いている人にはもちろん、むしろ現時点ではのほほんと「マグロの大トロが好き!」などと言っている人たちにこそ、読んで欲しい本である
( 2009/10 )
川崎 健

岩波新書

2009/06
新書
735
オススメ度 : ○
  漁業資源の変化を通じて、新しく動的な自然観・地球環境観を打ち立てる良書

日本の漁業を巡る問題には以前から関心を持っていて、レジーム・シフトも理解しているつもりだったのだが、これまでの理解が実に表層的なものだったことを思い知った。つまりレジームシフトを、単に海洋での魚種交代の意味にしか理解していなかったのである。

しかし実はレジーム・シフトとは、単に漁業資源管理の問題ではなかった。著者自身の定義のように、大気・海洋・生物、各々が互いに影響し合った結果として、地球環境システム全体の有り様(相)が、数十年単位で変動(あるいは振動と言うべきか)することを意味していたのである。レジーム・シフト理論の本当のインパクトは、ある一定の定常状態を基本の姿と想定する静的な地球環境観を否定し、絶え間ない変化・変動こそを常態と考える、動的な地球環境観を提示したことにある。本書中で繰り返し語られているMSY理論への批判も、EEZ(排他的経済水域)の設定を市場原理主義の拡大と関係づけて批判していく斬新な視点も、そのベースは同じ、この動的な地球環境観を出発点としている。

「MSY=定常理論」とする本書のMSY批判は現在のMSY理論の進歩をフォローしておらず、時代錯誤と思われる向きもあろうが、その点は差し引くとしても、本書が提示する動的な自然観・地球環境観が、実に魅力的で知的刺激に満ちていることは間違いない。出来るだけ多くの人に読んで欲しいと思う本である。

なお、レジーム・シフト理論の本質理解から少し離れて、日本の漁業資源管理の現状についての知識を得るためには、『
イワシはどこへ消えたのか―魚の危機とレジーム・シフト (中公新書)』を読むと良い。本書とあわせて読むことで、日本の漁業の現状と未来とに関する理解が、いっそう深まることだろう
( 2009/10 )
本田 良一

中公新書

2009/03
新書
819
オススメ度 : ○
  日本の漁業も消えるのか?

本書の3ヵ月後に上梓された『イワシと気候変動―漁業の未来を考える (岩波新書)』と、表裏一体をなす書である。(と断定してしまうのは、著者に失礼かもしれないが。苦笑)

レジーム・シフト理論そのものを理解し、そこから、これからの人類文明が自然資源をどのように利用して行くべきか、広い視野で考えたい向きには、『
イワシと気候変動―漁業の未来を考える (岩波新書)』をお勧めする。それに対して、日本の漁業や漁業資源管理の現状と問題点、その課題解決に向けた関係者の努力などに絞り込んで知りたいのであれば、本書の方が良い。どちらにもあまり馴染みのない人は、先に本書を読んでレジーム・シフト理論の大雑把なアウトラインをつかんでおくと良いだろう。(本書は非常に分かりやすい。)
また日本の漁業をここまで追い詰めた漁業政策や消費者の態度にまで考えを広げるのであれば、『
これから食えなくなる魚 (幻冬舎新書)』も合わせて読むべきだ。

いずれにせよ、ここで明らかになる日本の漁業の姿は、ほぼ、「お前はもう死んでいる」状態である。日本の漁業と魚食文化とを守ろうとするいくつかの努力も紹介されてはいるが、遅れて来た市場原理主義のバトルロイヤルの中で、それらの戦いはあまりにも孤立無援に見える。

悲しいのは、我々一般消費者がそのような日本の漁業の本当の姿を知らぬまま、間も変わらず貴重な天然資源である海の魚を浪費して、自らの罪に気づかずにいることだ。スーパーの店頭の向こう側で何が起きているのか、生産の現場から切り離されて孤立した現代の消費者には、何も見えていないのである。ただのサラリーマン家庭の平日の食卓にマグロの刺身が並ぶようになったのは、僅かここ10数年ばかり前からだと思うが、今の子供たちが大人になる頃には、マグロを含めた海の魚のほとんどは、庶民がめったに口に出来ない“幻の食材”になっているかもしれない。

我々が今、そういう時代に生き、そういう場所に立っているのだと言うことを理解するためにも、出来るだけ多くの人に、是非とも読んで欲しい本である
( 2009/10 )
   
沖縄関連
 
池宮城 秀意

岩波ジュニア新書

1980/01
新書
819
オススメ度 : ◎
  日本本土(ヤマト)に住む人ほど、知らなければならない長い歴史

中学生になった息子に、沖縄(琉球)の歴史や、沖縄と日本本土(ヤマト)との関係の歴史について知って欲しいと思って購入しました。息子に読ませる前に自分で通読しましたが、沖縄戦を中心に置きながらも、12世紀に遡る古琉球の時代から現代にいたるまでの沖縄の長い歴史が概説されており、沖縄の「今」がなぜこのような状況にあるのか、そして沖縄の「今」が、本当にはどんな意味を持っているのか、沖縄と日本本土(ヤマト)との間の複雑に絡み合った歴史の全体像を俯瞰するには、非常に良い本であると感じました。

特に、沖縄(琉球)と日本本土(ヤマト)との関係が現在のように複雑化したのが、第二次世界大戦末期の沖縄戦と、それに続く米軍の占領以降のことだとお考えの方には、是非一読をお勧めします。沖縄(琉球)と日本本土(ヤマト)との関係は、それ以前の長い歴史の積み重ねの中で既に複雑に絡み合っていたのであり、沖縄戦とその後の米軍による占領も、現在に至るまでの“原因”と言うよりは、むしろ、江戸時代以前に遡る歴史の“結果”として理解できるようになるでしょう。

初版が1980年の本ですので、細かな部分では最近の研究成果が反映されていない部分もあります。琉球王国の歴史や沖縄の戦中・戦後史についても、既にある程度詳しい知識を持っている人には物足りなく感じることもあるでしょう。しかしそのような点を差し引いたとしても、“沖縄”について考える際の“入門書”としては非常に優れた一冊だと思いますし、まずこのような本で全体像を捉え、そこからご自分の興味・関心に従って、より詳しい研究や勉強を進めて行くことをお勧めしたいと思います。
「岩波ジュニア新書」の中の一冊で、元々は中学生・高校生の読者を想定して書かれたものではありますが、中高校生向けの内容が、却って沖縄(琉球)と日本本土(ヤマト)との過去の歴史について知識のない方にとって、ちょうど良い入門書になっていると思います。「子供向けだろう?」などと馬鹿にせず、是非出来るだけ多くの人に(特に沖縄出身以外の大人の方に)、せめて一度は読んでおいていただきたい本だと言えます。

ただし、特に近現代の歴史の部分になると、時間軸を細かく前後する記述が増え、やや分かりにくくなる部分があります。その点が少々、残念です。
( 2009/05 )
奥野 修司

洋泉新書y

2009/07
新書
798
オススメ度 : ◎
  ウチナーンチュもヤマトーンチュも目を覚ませ!

本書では「沖縄」に関する二つの「幻想」が、厳しく批判されています。その一つは、“癒しの島・南の楽園”という、「本土が沖縄に抱く幻想」であり、もう一つは、「その幻想に自ら踊る沖縄が、本土に向けて抱く」“”本土並み”という幻想です。

しかしその批判が俗悪な週刊誌や知ったかぶりのテレビニュース番組などの“告発”記事と決定的に異なって感じられるのは、何と言ってもその根本に、沖縄への愛が満ちているからでしょう。沖縄が憎くて批判するのではありません。ましてや、批判記事で衆目を集めようというのでもありません。愛する沖縄の未来に対する矢も盾もたまらぬ思いが、この厳しい批判へと著者を動かしているのだと、私には感じられました。

そしてその、沖縄を巡る二つの幻想に対する批判はやがて、読者の中で、常に「沖縄」に対比される存在として現れる「日本」に対する批判へと繋がって行きます。書名こそ「沖縄幻想」というこの本ですが、実は著者が最も憎み、本書を通じて最も厳しく批判しているのは、何よりも、我々が住む「日本」という国の現在のあり方なのです。

それは例えば公共工事への依存。あるいは拝金主義。自然と文化の破壊。等々…。土建国家・日本の一番醜い部分が、今、「癒しの島・南の楽園」という仮面の下に隠れて、美しい沖縄の魂を蝕んでいます。

誇り高きウチナーンチュよ!今ならまだ間に合う。引き返せ。本当に守るべきもの、次の世代に残すべき、価値あるものを見つめ直せ。愚かな我々、ヤマトーンチュの後を追ってはいけない。

著者と同じく沖縄を愛するお節介なヤマトーンチュの一人として、私はそんなことを考えました。
( 2009/08 )
比嘉 慂

講談社 モーニングKC

2003/7
18.2 x 13 x 2.6 cm
580
オススメ度 : ◎
  コミックの形式で描かれたウチナーンチュの「怒り」と「誇り」

この作品集に収められた六つの物語は全てフィクションです。しかしここにモチーフとして描かれたモノやコトは、そのほとんどが60数年前の沖縄で実際に起きた事実がベースになっているということを知れば、そのことにまず、驚く人も多いのではないでしょうか。

沖縄戦を生き延びた人々の中には、「米軍よりも日本軍の方が恐ろしかった。」「米兵よりも日本兵の方が憎い。」という人が沢山いるのですが、「なぜ?」と疑問に思う人は、この作品集を読むべきです。沖縄戦下を生きた沖縄の庶民のリアルな姿を、“ヤマト”の我々に対して、親しみ易いコミックという形式で紹介した意味は、歴史的に見ても極めて大きなものでしょう。2003年の「文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞」を受賞した作品集ですが、出版から時間が経って、既に入手が難しくなりつつあるのが残念です。

ただしこの作品集に描かれたものが、日本軍や米軍の理不尽に対する怒りだけだと勘違いされては困ります。「米軍とウチナーンチュ」「日本軍とウチナーンチュ」の対立はそのまま、「国家権力と一個人」との対立に重なっていて、読後の印象に強く残るのは、むしろ、「軍隊」や「国家」という圧倒的な権力の暴力に晒されながらも、それに屈することなく、自らの内なる正義を貫いて生き抜こうとする沖縄の庶民の逞しく、美しい姿なのです。その姿は時代を超えて、現代の私たちにも、人が人として生きることの気高さを教えてくれることでしょう。

60数年前の沖縄で何が起こり、誰が何をしたのか。何も知らずにただ白い砂と青い空のリゾートだけを求めて沖縄を訪れる多くの観光客の皆さんには是非、この本を読むことをお薦めしたいと思います。あなたが白いパラソルを広げるその砂浜の下には、60数年前の戦争で、信じ、裏切られ、辱められ、殺された、多数の沖縄の民衆の血と骨と涙とが埋まっているからです。

しかしそれにも関わらず、その砂浜の下の白い骨たちは、彼らを裏切り、犯し、殺した者たちの子孫である私たちを、穏やかな笑顔で許すことさえするでしょう。沖縄とはそういう土地であって、沖縄がそういう土地であることを理解するためにも、私たちはそこに、白い骨が埋まっていることを知る必要があります。
( 2009/04 )
比嘉 慂

講談社 モーニングKC

2007/02
18 x 12.8 x 1.6 cm
670
オススメ度 : ◎
  「こういう作品があるということを忘れないようにしたいと思う。」

前作「カジムヌガタイ」で、太平洋戦争終結前後の沖縄を舞台に、米軍と日本軍との沖縄の人々に対する暴力を描いた(?)著者・比嘉慂が、同じ太平洋戦争前後の沖縄を舞台に、ウチナーンチュ(沖縄人)の精神世界や魂のあり方に、より深く切り込んだ傑作集です。
4つの物語はいずれも(時間軸を前後しながら)、沖縄本島付近(?)の離島でノロ(神女・巫女)を務める祖母を持つ「海里カマル」という少女を“狂言回し”として登場させています。(そしてこの「海里カマル」こそは、おそらく、作者・比嘉慂の分身です。)

「カジムヌガタイ」では、外部からやって来て一方的にウチナーンチュを蹂躙するものとして描かれた“ヤマト”や“ヤマトゥーンチュ”でしたが、今回の作品集では、前回と同様、傲岸な支配者としての横顔を随所に見せながらも、それだけには留まらず、むしろ同じウチナーンチュ同士の世界では(それが当たり前であるがゆえに)見落としがちになる、ウチナーンチュの内部・精神世界の深奥を照射する“鏡”の役割を果たしています。“ヤマトゥーンチュ”という「外部」が存在することによって却って、ウチナーンチュの心の奥底に受け継がれて来た精神世界の美が、輪郭も鮮やかに浮かび上がって来るのです。文学性はここで明らかに、大きく、深まっています。

冒頭に収められた作品・『風葬』のラストのページで、主人公(?)の少女・カマルは、かつて自分が曽祖母の“マブイ”(魂)と遊んだ経験があることを、祖母や母から聞かされます。少女はそこで、自分自身では既にそのことを忘れてしまっているにも関わらず、「そういうことがあったということを忘れないようにしたいと思う。」と言うのですが、それは単にカマル個人の感情の表出ではなく、むしろ、かつての文化的伝統を次々と、自ら捨て去って行こうとしている現在の沖縄に向けて、作者・比嘉慂が投げかけた、挑戦的な宣言だったのではないでしょうか。

ヤマトゥーンチュの私たちはもちろん、現在のウチナーンチュの皆さんにも、是非、“自らの物語”として、読んでもらいたいと思う一冊です。
( 2009/04 )
小波津 正光

NHK出版
生活人新書

2009/05
新書
735
オススメ度 : ○
  この笑いは人を刺す!甘い衣に包まれた苦い毒薬

「いぇ(おい)、ふらーナイチャーたーや(バカたれ内地の人間ども)!」

2004年、沖縄国際大学のキャンパスに米軍ヘリが墜落した時、東京に住んでいた著者は、この重大事件をほとんど無視して、ちょうど開幕したばかりのアテネオリンピックの話題ばかり取り上げている東京の新聞を見て、叫んだのだそうです。

その激しい怒りから、やがて『お笑い米軍基地』という“お笑い”の舞台が生み出されるまでを描いた第5章が圧巻なのですが、しかしこの本を読む前の大多数のナイチャー(内地人)にとっては、そもそもこの著者が何故こんなに怒ったのか、その理由を想像することさえ難しいでしょう。「沖縄」の人々にとっての“日常”と、「内地」の私のような人間にとっての“日常”の間には、あまりにも大きなギャップが横たわっているからです。

ギャップがあって、しかし当事者がそのギャップに気付かない時、そこには「笑い」が生まれます。それは遠い昔から変わらない、最も古典的な笑いの法則なのですが、沖縄の現状が生み出してしまったこの「笑い」には、余りにも鋭い痛みと苦みが隠されています。刃を向けられた者だけでなく、刃を向けた本人すら、その「笑い」の刃に切り裂かれてしまうのです。

著者は書きます。
「要するにわったー(自分)が基地をネタに金儲けしている。米軍基地が経済の支えとなっている今の沖縄そのものやさ。」

私のような内地人(ナイチャー)が、著者のような沖縄人(ウチナンチュー)から、「フラー(馬鹿者)」と蔑まれずに済む日は、果たしていつ、来るのでしょうか。

きちんと読めば、少しも笑えません。矛盾に満ちた沖縄の現実を、無理に取り繕うこともなく、矛盾のままに曝け出した良書です。ただし、それであるがゆえに、『お笑い沖縄ガイド』という署名は(それ自体が痛烈なブラックジョークだとしても)、本書の内容と合っていません。その点を残念に思います。
( 2009/07 )
   
仏教・神道・日本社会・文化関連
 
吉田 裕

洋泉社新書y

2002/12
新書
777
オススメ度 : ○
  近代日本が生み出した日本の軍隊。そして軍隊が生み出した日本の近代社会

思った以上に(いや、むしろ予想通りでしょうか?)面白い本でした。

明治期の日本国において、地方の貧しい農村の次男、三男にとっては、軍隊生活のほうがむしろ“贅沢な生活”であったという指摘や、職業軍人になることだけが社会的地位の向上(つまり“立身出世”)の方策であったこと。あるいは、昭和期に入って、資本主義経済の浸透によって日本社会が豊かになるにつれ、かつては同じ“士族”層が中心となっていた職業軍人と官僚・学者などのエリート(インテリ)層の出身階層が、それぞれに異なって来たことによって、軍部の「反インテリ」志向が強まってきたこと。など、豊富な資料を元に、日本の「社会」の変化との関係から、「日本軍」を語っています。
明治の末に生まれた祖父や、昭和の始めに生まれた父の、幼い頃の話などを思い出しながら読むと、出てくる明治の、大正の、あるいは昭和の庶民の暮らしぶりにもリアリティを感じましたし、その庶民の暮しと日本の軍隊との関係も身近に感じることが出来ました。

私はそもそも、軍隊や軍人が大嫌いな人間なのですけれども、このような本を読むと、どうして今の時代に至るまで「軍隊にいた頃は楽しかった。」とか、「今の若い者も軍隊に入れて鍛えるべきだ。」などという妄言を吐く老人(とは限らないところが最近の怖いところなのですが)たちがいなくならないのか、良く分かるような気がします。それは何も、戦前のいわゆる“軍国主義教育”のためばかりではないんですね。

もちろん、“軍国主義教育”の影響は絶大ではあったのでしょうけれども、それとても単に当時の教育者の頭の中が些か尋常でなかったためではありません。むしろその背景には、そのような教育を求める社会的要請があったのでしょうし、軍人や軍隊に対する社会的な期待が、教育界をそのように変えていったと見るべきなのでしょう。(ということは直接的には、この本には書かれてはいないけれども。)

そしてそのような社会から生み出された軍隊がまた、社会を、そして学校を変えていく。
けだし、この本の結語に書かれているように、「『昭和の陸海軍』は、日本社会が生み出した異物でも、鬼っ子でもなく、私たちの近代化そのものの一つの帰結だった。」ということですね。

さて、では、今の日本の社会は、軍事力(あえて“軍隊”とは呼ばずにおきますが)や軍人と、どんな関係を持ちたがっているのでしょうか。また、果たしてこれから、どんな関係を築き得るのでしょうか。憲法の変更(“改正”とは敢えて言いますまい)や米軍基地の移転問題が喧しい昨今ですが、それは結局、我々がこれから、どんな社会を作ろうとするのか、という問題に他ならないのでしょう。

私が住むこの社会(シマ)が、どんな社会になると良いかな。そんなことを考えながら、決して過去の物語としてではなく、読みました。
( 2009/04 )
安田 喜憲

ちくま新書

2006/11
新書
756
オススメ度 : △
  極めて貴重な示唆に富んだ、でも基本的には世迷言(苦笑)

極論だらけの本です。大雑把にまとめてしまえば、「ユダヤ・キリスト教のような超越的秩序を求める宗教観が“諸悪の根源”で、多様で現世的な価値観を尊重する“アミニズム”の復権が世界を救う。」というのが、この本の主張と言って良いと思うのですが、そうした主張の正当性を丁寧に論証していくような内容には乏しく、用語の定義や用法もあいまい、牽強付会やご都合主義、“論理のすり替え”も「てんこ盛り」になっています。
(そもそも、“アミニズム”の特性が「利他」とか「慈悲」とかにあると主張する一方で、それに対峙する存在としての“ユダヤ・キリスト教”“超越的秩序”“一神教”“畑作牧畜文化”に対して徹底的に不寛容で、攻撃的だというのは、自己矛盾ではないかと思うのですが…。笑)

特に前半、他の研究者の文献からの引用や用語の使用が多いので、一見、非常に広範に文献を渉猟し、検討した結果として辿り着いた主張であるように見えるのですが、その引用の方法や用語の使い方は非常に恣意的で、つまりは先人の研究成果の都合の良い部分だけをパッチワークすることで説得力を生み出す、「似非科学」や「トンデモ本」の類と変わりがありません。自然科学の本ではないので、「似非科学」と呼ぶのが相応しくないとすれば、「似非哲学」とでも呼びたいところでしょうか(苦笑)。

ただし、だからと言ってこれが読む価値のないものかというと、それが違うところが本書の面白いところです。

例えば「島国性の復権」であるとか、あるいは「水利共同体」に対する再評価であるとか、「アミニズム連合」の提言であるとか、(著者の提言ではないのですが)「ネイチャーテクノロジー」の考え方とか、この小さな一冊の本の中には、私たちの硬直化した思考パターンに衝撃を与える、貴重な視点や重要な示唆が、無数に埋もれています。全体としては全く支離滅裂ながら、ところどころにキラッと光る主張を見つけて、ついつい引き込まれてしまうのは、著者と関係が深い梅原猛(共に国際日本文化研究センターの主要な関係者で、共著作も多い)の著作にも共通する特徴。というところでしょうか。むしろ「アカデミズムの仮面を被ったジャーナリズム」と言うべきなのかもしれません。

そんなわけで、元々から文明論や宗教論などへのリテラシーが高い人間には、是非一読を勧めたい一冊ではあるのですが、その一方、そうしたカテゴリーに馴染みのない人間には、決して最初に読ませてはいけない本でもあると感じます。この本に書かれていることが全て「事実」もしくは「真実」だと誤認してしまったら、大変な誤りを犯しかねないからです。

おそらく、この本の中で断定されている、しかし実は仮説に過ぎない沢山の発見や指摘の正当性をひとつひとつ検証して行くことなどは、著者の頭の中には初めからないのでしょう。著者は、彼本来の「環境考古学」という分野の研究を続ける中でひらめいた“アイデア”の数々を私たちに提示し、読者である私たちはその無数の仮説の中からいくつかを選び出し、その真偽を確かめたいと思う人はその真偽を追及すれば良いですし、今後の実践の指針として採用したいものがあれば採用すれば良い。そのような素材を集めた素材集として、あるいは道具として、材料として、極めて優れた、「面白い一冊」ではあると、私は思います。
( 2009/04 )
石 弘之
湯浅 赳男
安田 喜憲

岩波新書

2001/05
新書
756
オススメ度 : △
  リテラシーのある人にはおすすめですが…

現生人類の誕生から今日の文明まで、人間と人間社会との周囲に存在した自然環境(その中でも特に「水」と「森」)が、人類の歴史の変化や発展にいかに影響を与え、また人間によって影響を与えられてきたかを、幅広く論じた本。読めば非常に面白いですし、示唆にも富んでいます。今の社会のあり方について、これまでとは違う視点が与えられるかもしれません。

ただし、その本質は、新橋のガード下で歴史好きの中年サラリーマンが集まって、言いたい放題の歴史解釈をして盛り上がっているのと変わらない部分があります(苦笑)。鼎談と言う形式の長所でもあり、短所でもあるのですが、大胆な仮説が無造作に提示されて、十分な検証もされないままに放置されている部分が大部分です。毀誉褒貶相半ばするところでしょうね。

でも物事の本質はしばしば、学会での論文発表などよりも、酔漢の戯言の中にこそ見出せるものでもあります。現状では決して、本書を歴史の“教科書”として使うことは出来ないのですが、“教科書”と併読することによって、我々の歴史や文明の本質に対する理解を深めることが可能になるのではないでしょうか。また2001年の段階でここまでの議論が出来ていたということには、歴史的な意味もあります。

文明史や環境史に関してある程度のリテラシーを持っていて、自分なりの批判を加えながら読める人にはお勧めしたい本。逆に、ここから勉強を始めようという方には、かなり危なっかしいところがある本でもあります。
( 2009/04 )
   
その他
 
川端 裕人

文春文庫

2006/03
文庫
690
オススメ度 : ◎
  人間たちにできること

もともとは1999年に単行本として出版された本で、1990年代半ばのアメリカの動物園の展示や活動について、35ヶ所の動物園、120人以上へのインタビューを元に、その実態や考え方をレポートした内容でした。出版後、我が国の動物園関係者の間では「バイブル」とまで言われて、古本屋でも価格高騰、入手困難になっていたのだそうですが、その本が、最近の我が国の動物園への取材を付け加えて、文庫として再出版されたものです。

で、タイトルが「動物園に出来ること」ですので、特に「動物園好き」でない方には興味を持ってもらえないのではないかと思うのですが、それが非常にもったいないと思います。というのは、本書の“入り口”は確かに動物園ではあるのですが、その中に描かれているのは単に「動物園」という、ある限られた敷地内で起こっていることだけではなく、むしろ、人間と野生動物の間にどんな問題が起きているのか、ひいては、人間と周囲の自然環境の間で、我々が何を考え、どんな行動を取るべきなのか、そんなことを考えさせてくれる本だからでです。
野生動物を捕獲し、飼育している「動物園」という“場”(それは物理的な空間としての「動物園」だけではなく、動物園と言う組織が行う活動と、それに接する人、モノ、環境までも全てを含めた意味での“場”)では、動植物を含めた自然環境と、それに向き合う人間との間の様々な問題が、最も先鋭なカタチで顕現してきます。だからこそ「動物園に出来ること」とは即ち、(自然環境に対して)「人間に出来ること」なのではないかと、私には思えるのです。

これは本書が単純な「動物園レポート」として企画されたものではなく、そもそもの出発点が、「野生動物の絶滅が危惧されている時代に、動物園の役割は何か。それは今も必要なものなのか。野生動物を捕獲して展示すると言う行為は、現在〜これからの人間社会に、許されることなのか。」という、著者の問題意識にあったからこそ、到達できた地点だと思います。その意味で、他のいわゆる「動物園ガイドブック」の類とは、全く異なる存在です。

また特に、動物園と同じように、野生動物を捕獲して飼育している海水魚飼育者にとっては、この本の内容のどこもかしこも“他人事”ではないと感られることでしょう。この本を読むことによって私たちは、自分自身の飼育スタイルを反省することにもなるでしょうし、その反省を通じてまた、海水魚飼育の奥深さに思いを致す契機にもなるのではないかと思います。そうした意味で、掲示板でも私はこの本を「教科書認定」しましたが(笑)、魚をはじめ、カエルでもヤドカリでも、全ての野生生物を飼育する人には是非、読んで欲しいと思います。
( 2006/03 )
好井 裕明

平凡社新書

2007/04
新書
798
オススメ度 : ○
  差別する側の立場から、「差別する」ことの意味を突きつけられる

「差別」に関する書籍と言うと、つい「差別される側」の立場から「差別する側」を糾弾するような本を目にすることが多いと思うのですが(そしてそのようなスタンスの本も、もちろん必要であり、読む価値のない本ではないとも思うのですが)、この本は違います。それらの本とは全く異なる視点から「ヒトが差別する」ことの意味を問い直すことで、「差別」の根源に迫ろうとした本だと、私は感じました。

もちろん、本書の中では、自分自身が差別の現場に直面した時、どう振舞えば良いかという実践的な内容にも触れられてはいます。ただそれよりも、この本のユニークなところは、差別という行為をヒトという動物の身に着いた基本的な生態の一つであることを確認した上で、そのような「差別する者」としての読者に、自覚的な選択を迫って来るところだと、私は考えます。つまり差別という行為が(「差別される者にとって」ではなく、)差別する本人にとってどのような意味を持つのかを考えさせられることによって、我々はより深い自省を迫られるのです。

筆者は言います。「差別という営みやそれを平然とやっている人は、…“ひととして貧しく、つまらない”」と。

それは差別することが「いけないこと」だからでもなく、差別することによって「差別される人が傷つくから」でもありません。「差別する」という行為自体が、他者からあらかじめ与えられたヒエラルキーに盲従し、依存することであり、眼前の現実をその都度、自分自身のオリジナルな価値観と判断力とで評価する意思と権利とを放棄することであるから、その「差別」に無自覚に我が身を委ねて反省もない人は、「ひととして貧しく、つまらない」のです。

そこではもはや「差別」は、「差別される者」と「差別する者」との関係性の中に存在する問題ではありません。それはひたすら「差別する者」の生き方の問題であり、自己決定権の問題に収斂される。この著者の主張は、そこにあるのではないでしょうか。

もちろん、その一方で、「差別すること」は容易で、効率的な方法論でもあります。だからもしかしたら、我々が社会的な成功を収めることを望むのであれば、その方が近道なのに違いありません。しかしそれは同時に、あらかじめ与えられている他者の評価に依存して、眼前の事実を自分自身で評価する責任から逃避する行為でもあり、つまりは近代的自我に欠くべからざる自己決定の矜持を、自ら手放すことでもあるのです。

「あなたはどちらを選ぶのか。」筆者から私たちに、投げかけられた問いであると思います。
( 2009/06 )
瀬戸口 明久

ちくま新書

2009/07
新書
756
オススメ度 : ○
  科学の発達と社会の変化とが“害虫”を産み出した

「害虫」に関する一種の“薀蓄本”として読んでも十分に面白いが、それだけで評価するのはあまりにも勿体ない。著者本来の野望は、エピローグやあとがきに書かれている通り、自然科学もそれ自体として社会の影響から独立して自立的に発達するものではないことや、それと同様に、我々にとって「望ましい自然」や「そのための科学技術」について考えることは即ち、我々自身が自分たちにとって「望ましい社会とは何か」を考えることに他ならないのだということを、気づかせるところにあるからだ。


著者は「害虫」に対する我々の固定観念(人はそれを「常識」と呼ぶ)を次々とひっくり返して見せることで、自身の主張を裏付けていく。害虫概念の変化は、むしろそのための格好な素材だったと考えた方が良いのかもしれない。

しかしこのところ、本書と同様、自然環境の問題に対して、自然科学の分野からだけではなく、人文科学、特に社会学の分野からアプローチして行こうとする態度が一般化して来たような気がする。現在の自然環境の変化が、他でもない人間社会の変化によってもたらされたものであり、その結果として失われた自然環境の活力を回復するためには、まず人間の社会が変わる必要があることを考えるならば、それは誠に喜ばしいことである。

本書の内容はいわゆる「昆虫好き」の皆様から見れば些か物足りないものなのかもしれないが、ヒトの社会と自然の生き物との関係性に関心を持つ者にとっては、大いに学べる。少しでも多くの人々に読まれることを願う。
( 2010/01 )
別冊宝島スタディー

宝島社

2009/10
25.4 x 18 x 1 cm
1,260
オススメ度 : ◎
  “あそびゴコロ”と“科学するココロ”との絶妙なバランス

本書を開いてまず目を引くのは白いバックライトの中に浮かび上がった透明標本の美しさなのですが、それだけの本ではありません。透明標本の写真の横には透明化処理する前の、それぞれの生き物の写真も添付され、透明化されたことで分かりやすくなった骨の仕組みや働きの解説も添えられています。「透明標本」という技術そのものの解説もあるし、透明標本を用いた「骨格図鑑」として見ても、専門外の私には新鮮で興味深い、魅力的な内容でした。

しかもその一方では、これまで透明標本の対象とされてこなかった無脊椎動物の透明化処理を試みていたり、透明標本を用いた絵本的表現(?)に挑戦していたりなど、いわゆる「科学書」「学術書」の範疇には収まっていない面白さもあります。「宝島別冊」らしい“あそびゴコロ”と“ごった煮感”に満ちているのです。
かと思うと、透明標本の美しさにばかり注目が集まる結果として、生き物の命をインテリアやアートとして消費してしまうことに対しては、わざわざ1ページを割いて、きちんとした警告も発しています。心憎いばかりの目配りで、その点、ほぼ同時期に上梓された小学館の『[新世界]透明標本』とは対極的な位置にあります。

少年の頃、ホルマリン漬けになった標本や人体模型などが保管してあった理科準備室には、怖さと気持ち悪さの一方で、生き物の不思議を垣間見る驚きやワクワク感にも溢れていました。そんな理科準備室の暗がりの中で私などは、いつか大人になったら立派な科学者になって、ノーベル賞をもらおうと夢見ていたものでした(笑)。

本書を読んで私には、そんな少年の日のときめきが甦って来ました。
( 2009/10 )
冨田 伊織

小学館

2009/10
19.8 x 19.8 x 1 cm
¥ 1,575
オススメ度 : ○
  実に美しい透明標本の写真集。偶然の産物かもしれないが、詩的領域にまで達している。

ほぼ同時期に上梓された『驚異! 透明標本いきもの図鑑』が書名通り、「透明標本を用いた生物図鑑」だったのに対して、本書は「透明標本そのものを鑑賞することを楽しむ本/写真集」です。
同じ「透明標本」をモチーフとしながら、スタンスが全く異なる二つの本が、しかもほぼ同時期に上梓されると言うのは、とても面白い偶然の一致です。両者の違いはいわば、「水族館の水槽と商業移設の展示水槽の違い」。あるいは「動物園とペットショップの違い」。そんなところでしょうか。

ただ、この本が単なるコマーシャリズムに終わらなかったのは、後半に掲載されている、カエルを飲み込んだヤマカガシの写真のお陰でしょう。透明化されたヤマカガシの骨格の上に重なった丸い陰が、まるで何かに手を合わせるかのような姿で生きたまま丸呑みにされて絶命したニホンアマガエルの骨格であることに気付く時、それまではまるで美しくも人工的なオブジェに過ぎないかのように見えていた透明標本のそれぞれが、かつては紛れもなく生きて動いていた生命そのものの変わり身であることを認識して、私は軽い戦慄を覚えました。

それが著者の計算によるものか、偶然の産物によるものかは分かりません。ただ、ヘビとカエルとの間で交わされた生命のやり取りの瞬間を固定化に成功した、ただ美しいだけではない標本の緊張感が、本書全体に新たな意味を与え、もしかしたらただのスノビッシュな写真集に終ったかもしれない本書を、一つの映像詩の領域にまで高めています。

願わくば本書を手に取った人が、ただ自然の造形の妙に心奪われるだけでなく、そこに宿っていた生命の不思議に共感し、吠え、噛み、暴れ、毒を放ち、臭い息を吐き、排泄し、病んで死んで腐敗する、生き物の命そのもののへの関心と敬意とを抱いてくれますように。本書がそのきっかけになりますように。

心から祈りたいと思います。
( 2009/10 )

 

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