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三線と奄美・沖縄民謡の世界[2]

奄美&沖縄・5つの音楽世界

 

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三線の稽古と勉強を始めてから、これまで20年以上毎年のように沖縄に行っていたのに、
実は沖縄の音楽や三線についてはほとんど何も知らなかったし、また間違った事を憶えている事も多いのだ
ということを知りました。

そこでこちらのページでは、そうした知識を中心に、
琉球三線や八重山民謡について最低限、知っておくと良いと思った知識を掲載していきます。

でも所詮素人の聞きかじりなので、かなりの間違いや思い違いがあると思いますが、
そんな時は堪忍して下さいね。

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奄美・沖縄音楽の分類
  ひとくちに「沖縄民謡」や「島唄」と言っても、実はその音楽的な内容はひとつではありません。
同じ様に三線を主な伴奏楽器とすることが多い奄美・沖縄の音楽は、少なくとも次の5つに分類されると言われています。

(1).奄美島唄
(2).沖縄民謡
(3).琉球古典音楽
(4).宮古民謡
(5).八重山民謡

それぞれが違う特徴を持つという事を意識して聞くようになると、それぞれの違いは徐々に分かってくるのですが、最初は全部が同じように思うかもしれません。そこでこのページでは各々の特徴について、簡単に説明したいと思います。それぞれにはどのような特徴があるのでしょうか。

   
(1)奄美島唄
  「三線を弾くのに竹を細く削った独特の撥を使う」「裏声を使った独特の歌唱方法」「高い声に合わせた独特の弦(大島ヂル)」など、同じ三線を使いながら、現沖縄県の三線音楽とは著しく異なる特徴を持っています。やはり琉球王国と切り放され、ヤマトの一部に組み込まれた事で、音楽も独自の発展をとげたのでしょう。
ところがその一方で、「奄美」と「八重山」には同じ「六調」という曲がある(雰囲気は大分、変わっていますが、源曲は同じだと分かる)のも面白いところです。

ちなみに「島唄」という言い方は元々は「奄美島唄」のことであったそうです。沖縄では一般的に「民謡」と呼ばれていて、「島唄」という言葉はなかったとか。それが1970年ごろから主にマスコミで「島唄」という言葉が使われ始め、THE BOOMの『島唄』という曲のヒット以来、沖縄でも「島唄」という言い方が一般化して、今では普通に「島唄=沖縄・奄美の民謡」と理解され、使用されています。
THE BOOMの『島唄』も、最初に流行り出した頃には「あんなものは沖縄の音楽とは全く違う。」と言われていた(と言うか、実際、全然沖縄音楽ではありませんが)そうですが、今では沖縄本当中部のお盆の伝統行事のエイサーに採り入れているグループもあるそうな。“唄は世につれ、世は歌につれ”というところでしょうかね。

   
(2)琉球(沖縄)古典音楽
  明治維新前、かつての琉球王国の宮中で発展した宮廷音楽です。中国から三線を最も早く採り入れたのみならず、ヤマトからの文化も受け入れて、独特の高度な音楽(と芸能=組踊)の世界を作り上げました。全ての三線音楽のベースになったと言っても良い音楽だと思います。
西洋音楽の音階とは異なる、独特の沖縄音階を採用しています。

留意すべきはその古典音楽の担い手が琉球王国の官僚たちであり、士族階級であったことです。
琉球王国においては、中国との朝貢貿易や薩摩や江戸幕府との交易・交流が、国策として最重視されていました。その交易・交流の際の祝宴は、当時の琉球王国にとって、国家の盛衰を掛けた一大国家行事であったわけです。
当然、その場で披露される音楽や芸能も、単純な「座興」というわけにはいきません。琉球王国が交易に足る相手であるかどうか、その文化程度が試される場であったわけです。(旧日本国の「鹿鳴館」にも似ている部分がありますが、それ以上です。)

ところが、明治に入って琉球王国の崩壊と共に、それらの音楽・芸能を支えていた士族・官僚階級はその職を失い、技芸を披瀝する場を失ってしまいました。その結果、多くの楽師(と言っても元々は高級官僚)が野に下り、庶民の間での沖縄の民謡の興隆に繋がったとのことです。ただし、もともとこの「琉球(沖縄)古典音楽」は、琉球王朝の宮廷音楽として、宮廷の中で歌われ、演奏された音楽ですから、庶民の間で歌われていた「民謡」ではありません。「古典」の先生に教わっても、「民謡」は教えてくれませんので、御注意下さい。

   
(3)沖縄民謡
  我々“ヤマトンチュー”(=日本本土人)は、沖縄県で歌い継がれてきた伝統音楽を全て「沖縄民謡」と考えてしまいがちですが、沖縄県の中で「沖縄民謡」と言う時には、おもに沖縄本島とその周辺の島々の民間(庶民)に伝承された「楽曲」と「歌い方」のみを、「沖縄民謡」と言います。
明治維新で琉球王国が日本国に併合される以前から庶民に伝えられていた唄が基盤となって、明治以降、琉球王朝の士官たちが野に下ると共に、琉球古典音楽の影響も色濃く感じられる唄が沢山、あります。(ただし、宮廷音楽である「古典」そのものは、「沖縄民謡」とは呼びません。)

またもちろん、宮古や八重山地方の歌が沖縄本島にも伝えられ、「沖縄民謡」として歌われている曲もあります。
しかし、たとえば同じ「デンサー節」という歌(もともとは八重山地方・西表島の歌)を聞いても、「八重山民謡のデンサー節」と「沖縄民謡のデンサー節」では、歌詞も曲も、少しずつ違うものになっていますので、注意が必要です。
もともとは同じ歌だったのでしょうが、長い時間を掛けて伝わるうちに、地域毎の違いが大きくなったのでしょう。
沖縄民謡と八重山民謡の異同については、沖縄民謡の刈手嘉利林昌と、八重山民謡の山里勇吉が、それぞれの地域に伝わる同名異曲を歌った「うたあわせ」というCDがありますから、興味の有る方はお聞き下さい。

そうした状況ですから、「沖縄民謡の先生」に教えてもらっても「八重山民謡のデンサー節」を教えてもらうことは出来ません。同じ様に、「古典」の先生に「沖縄民謡」を教わることは出来ません。(もちろん、どちらも教えることが出来る先生はいらっしゃいますが、基本的にはそれぞれを、別の先生から、教わっていることになります。)

ちなみに、八重山地方や宮古地方に住む人が沖縄本島や周辺の島々に行く時にも普通、「沖縄に行く」と言う表現をします。沖縄圏内に住んでいる人にとっては、「沖縄」というのは、「沖縄本島およびその周辺の島々を含む地域」という意味なんですね。

   
(4)宮古民謡
  「古典」「沖縄民謡」「八重山民謡」などに比べると、「宮古民謡」はまだまだ、広く沖縄県外に紹介されていないようです。私も良く知りません。
ただ、特徴としては、後に述べる八重山民謡とは逆に、島の役人や支配層が作曲した「作品」というような曲目は少なくて、民衆が地域に伝えてきた民謡がそのまま、残されている傾向が強いらしいと聞いています。三線の伴奏を伴わない「素歌」が多いそうです。
また逆に三線曲の場合、録音されたり記録されたりすることが少なかったので、宮古民謡とし最も有名な「なりやまあやぐ」など、実は昭和30年代になって作られた(というか、古い歌を元に編曲された)曲であったり、ということもあります。

今では昭和30年代に録音された宮古地方の人々の歌をCDで聞くことが出来ますが(私が聞いたのは「甦る沖縄の歌声」というCD)、素朴であるがゆえに力強く、独特の魅力を持っている歌がある。と思いました。

   
(5)八重山民謡
  沖縄本島より遥か西の海上、もうすぐ台湾との国境と言う場所に広がる八重山諸島の島々に伝えられているのが「八重山民謡」です。(八重山からだと沖縄本島よりも台湾の方が近いって、知ってました?)

「八重山は唄の島」と言われるように、石垣、西表、竹富、小浜、黒島、鳩間、与那国と、数多くの島ごとに魅力ある民謡が残されています。また「アヨウ」「ユンタ」「ジラバ」という、三線を伴わない古い歌謡が唄い残され、島々の祭礼などで盛んに唄われているのも、この地域の特徴です。そしてそれらの古謡の他に、比較的新しい時代(江戸時代など)に、那覇から赴任した士族階級(役人)などが三線の伴奏を付けて作曲した曲(「節歌」という)が残され、「八重山民謡」として歌い継がれています。
「節歌」については、土地土地の支配層が作った歌であるだけに、「民謡」とは言いながら、作者の個人名や作曲した際のエピソードなどが言い伝えられているのも面白いところですね。

また、「沖縄の民謡」の中で、我々ヤマトンチューに最も有名なのが「安里屋ユンタ」ではないかと思いますが、その「安里屋ユンタ」も八重山民謡です。(厳密に言えば、共通語の「安里屋ユンタ」は、ヤマト向けに改作された「新・安里屋ユンタ」ですが。)その他に1970年代にNHK「みんなのうた」で「月ぬ美しゃ」が紹介されたりと、実は「沖縄民謡」よりむしろ「八重山民謡」の方が、我々ヤマトンチューには馴染み易かったりすることがあります。それは「沖縄民謡」よりも、より古い音楽の形式(音階)が残っている八重山の民謡の中に、日本古来の音楽の形式(音階)に近いものがあるからなのだそうです。
しかも、ただ単に古いものが残されているだけではなくて、新良幸人、大島安克、鳩間加奈子、BIGIN(は、ちょっと違うけど…(^_^;;)など、特に最近になって若手のミュージシャン(と言うより唄者)の活躍が目立っていたり、「民謡」の枠を超えて世界中の様々な音楽との融合にチャレンジしている大工哲弘がいたり、とその“音楽の幅”の広さも、「八重山」の特徴のひとつかと思います。(「民謡」ではないかもしれませんが…苦笑)

ただし、沖縄本島で「沖縄民謡」を習っている人からすると「八重山民謡は難しい」のだそうです。音階も違うし、言葉も違うし(例えば、沖縄本島で「美ゅら(ちゅら)」と言う所を八重山では「美しゃ(かいしゃ)」と言う)、「沖縄民謡」が身体に染み付いて人には、却って馴染めないのかもしれませんね。(きっと逆に、「八重山民謡」をやっている人には「沖縄民謡」が難しいのだと思いますが。)
ひと口に「沖縄の民謡」と言っても、「沖縄」と「八重山」では、ずいぶん違うようです。(でも私にはまだどちらも難しいのだけど…(^_^;;)。

   
(6)新唄(みーうた)
  上記の5つの分類、いずれにも収まらないけれども、沖縄で盛んに唄われ、親しまれている唄があります。比較的新しく創作された唄=新唄(みーうた)と呼ばれるものです。
いつの時代以降の曲を「新唄」と呼ぶのか、はっきりした基準はないと思いますが、ひとつには昭和時代以降で、作詞作曲者の個人名が明確に特定できる「作品」は、「新唄」と呼んでも良いのでは?と思います。

ただ、「軍人節」「南洋小唄」「屋嘉節」「ヒヤミカチ節」など、昭和以降の新しい作品でも既に「沖縄民謡」の、しかも名曲として認識、定着している歌もありますし、逆に非常に新しい唄であっても、「ハイサイおじさん」や「花〜すべての人の心に花を〜」など、「沖縄POPS」とも呼ばれる曲を、どこまで「沖縄の音楽」と呼んでよいものか、若干、悩ましいところでもあります。「十九の春」のように、元歌はヤマトの流行り歌で、でも今では沖縄でしか歌われなくなって、すっかり「沖縄の歌」として紹介されてしまっている歌をどのように分類するのか、という問題もありますしね。

いずれにせよ、分類などと言うものは、音楽を楽しむには本質的な問題ではありませんから、とりあえず、沖縄の伝統的な音楽は、理論上、5つに分類することが出来、その後はそれらの様々な音楽や西洋音楽の影響までを含んで成立した、一連の新しい沖縄音楽が今も形成されつつある、そう認識しておけば良いのではないでしょうか。
THE BOOMの『島唄』も当初は全く沖縄の音楽とは認識されていませんでしたが、今の20代などの若い世代にしてみれば、「古典音楽」などよりもずっと親しみのある「沖縄の音楽の代表」になっているように思いますし、何十年か後にはBIGINの「涙そうそう」なども、「八重山(古典?)民謡」と呼ばれているかもしれません。
「民謡=民の謡」というものは、そのように変化して行くものだと思いますし、また今も常に新しい「新唄」が、プロの音楽家からだけではなく、アマチュアの民衆の中からも次々に生み出されて来ている、それが沖縄の音楽の魅力だと思います。

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