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素人の素人による素人のための八重山民謡ガイド[4]

安里屋ユンタ
(あさどやゆんた)

2007.02.11 UP

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実際に先生に習っているわけでもありませんし、沢山の本を読んだわけでもないので、
本来、、とても他人様に八重山民謡を解説できるほどの知識は持たない私ですが、
もちろん私よりももっと知らない人もいるわけで、そういう方のために、
私が知っている限りの知識で八重山民謡の紹介をします。
これから八重山民謡を聞いてみようという時に、少しは参考にしてもらえるとありがたいです。

でも所詮素人の聞きかじりなので、かなりの間違いや思い違いがあると思いますが、
そんな時は堪忍して下さいね。

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非常に有名な曲です。「安里屋ユンタ」という曲名は知らなくても「マタハーリヌ ツィンダラカヌシャマヨー」という囃子を聞けば、「あぁ、聞いた事がある。」と思う人も多いのではないでしょうか。
まだ太平洋戦争が始まる前に「沖縄の民謡」として紹介され、当時の日本本土で大流行したので、今70代以上の方は、「沖縄民謡」と言うとこの曲を思い浮かべる方が多いでしょう。戦地の兵卒の方が「死んだら神様よー」などと、替え歌にして唄っていたと言うことです。
また現在でも、我々ヤマトンチューが三線を始める時の最初の練習曲がたいていこの曲(八重山民謡の教室ではなく、沖縄民謡の教室でも、「安里屋ユンタ」ではじめる事が多い。)ですので、「他は知らないけど、安里屋ユンタだけは弾ける」という人も多いと思います(←そりゃそれでまた苦笑なんですけど…)。

この「安里屋ユンタ」、現在でも「沖縄の八重山地方の竹富島の民謡」として紹介される事が多いと思うのですが、でも実はこの非常に有名な「安里屋ユンタ」は、本当に八重山に伝えられている「安里屋ユンタ」とはちょっと違うものなのです。

「サー 君は野中のいばらの花か …」

という歌詞で始まる「安里屋ユンタ」は、実は昭和9年にコロンビアレコードの依頼を受けて、最初から日本本土向けに、後(アメリカ占領統治時代)に琉球政府立法院議長になる小学校教師・星克が全く新たに詞を書き、作曲家で沖縄音楽の地位向上と本土普及に努力した沖縄師範の音楽教師・宮良長包が三線伴奏の編曲をしたもの。「八重山民謡の安里屋ユンタ」は、主旋律こそほとんど変わらないものの、歌詞が八重山方言で全く違う内容である(八重山民謡の「安里屋ユンタ」は、甘い恋の唄などではありません。)ほか、三線の伴奏も全く異なっています(宮良長包の編曲の方がずっと技巧的で派手。八重山のものはずっと素朴で、その代わり軽やかな感じ)。
実際に聞いてみるとほとんど全く別の曲なので、その辺をきちんと区別したい時には、共通語の歌詞を持つ新しい伴奏の曲を、「新安里屋ユンタ」として区別する事が多い様ですね。(ただし観光地などでは単に「安里屋ユンタ」として区別なく使われていますが…。そんな説明しても興味のない人には関係ないですからね。)

で、この「安里屋ユンタ」が更に複雑なのは、「八重山民謡の安里屋ユンタ」と、実際に竹富島に伝えられ、唄われている「安里屋ユンタ」が、また別物であることです(苦笑)。「八重山民謡の安里屋ユンタ」の中では、島に赴任してきた下級役人(目差主=助役クラス)に求婚された安里屋クヤマという絶世の美女が、「そのうち島を離れて首里へ行ってしまう役人と結婚するより、島の男と結婚する方が良い」と言って求婚を断るのですが、「竹富島の安里屋ユンタ」では、求婚を断ること自体は同じでも、その理由は「下級役人なんかイヤだ。もっと上級役人(与人=村長クラス)が良い」というものなのですよね(なんて現金な!)。
しかも歌詞の内容が違うだけではなくて、三線の伴奏や囃子の入り方も違います。全体的に竹富島の「安里屋ユンタ」の方が一番リズミカルで、いかにも農作業をしながら唄っていたんだろうなあ、という感じ。八重山民謡の「安里屋ユンタ」になるとちょっと「座敷唄」の感じが強くなって、「新・安里屋ユンタ」に至っては、やはりレコード録音用の編曲だな、ということを、強く感じます。

こうなったのには訳があって、実は今現在「八重山(古典)民謡」としてお稽古されている「八重山民謡」は、八重山の中でも最も栄え、中心地でもある石垣島の役人たちや富裕層に伝えられ、楽譜(工工四・くんくんしい)に残されて伝えられた唄だからなんですね。石垣島の役人が島々を巡るうちに覚えた唄を伝承しているので、途中で誰かが間違えて覚えたり、あるいは独自の編曲をしたりすれば、実際に島々の民衆が唄い、伝えてきたものと、少しずつ、変わってしまいます。もちろん島々で伝えられている唄も、これは工工四などには残されていないのですから、やはりどんどん変化して行きます。そしてその結果いつのまにか、「島々に伝えられている原(?)曲」と、「八重山(古典)民謡」として伝えられている唄が違うものになってしまった、ということなのでしょう。
これは実はそんなに珍しい事ではなくて、「八重山(古典)民謡」として伝えられている唄と、その唄の発祥の地である島に伝えられている唄では、多かれ少なかれ、違いがあるのが普通です。(それでもこの「安里屋ユンタ」のように、歌詞が全く変わってしまうのは珍しいですが…。)

ここで更にもうひとつ複雑な話をすると、「安里屋ユンタ」と全く同じ歌詞で、でもリズムや節回しが全く違う「安里屋節」という唄もあります。(「ユンタ」よりずっとゆっくりで、荘重な感じ。)これは「八重山(古典)民謡」の中でもきちん、「安里屋ユンタ」と「安里屋節」として、違う曲として区別されていますので、御注意下さい。(でも歌詞は同じなんだけど…(^_^;;)。

以上をまとめると、「安里屋ユンタの仲間」としては、だいたい、4種類があることになります。

1.新・安里屋ユンタ
2.八重山(古典)民謡の安里屋ユンタ
3.竹富島の安里屋ユンタ
4.安里屋節

という4種類。
ま、こんなことを知っていても普通の方にはあまり役には立たないのですが、三線を習い始めたばかりの人間が集まって合奏でもしようと思うと、「その安里屋ユンタはどの安里屋ユンタだ?」なんてことにもなりかねません(ならないかな?…笑)。実際には「役に立たないムダ知識」かもしれませんが、こんなことからも、沖縄・八重山の文化の多層性みたいなことを感じ取ってもらえると良いな、と私は思います。

さて、そんな「安里屋ユンタ」のお勧めCDですが…。
上(↑)でも少し触れましたが、「ユンタ」というのは元来が作業歌で、男女が声を掛け合って、あるいは数組に分かれて交互に歌いながら、例えば田植えなどの農作業をする際に唄われたものです。ですから、もともとは三線の伴奏などありません。そのような元々の「安里屋ユンタ」の雰囲気を感じさせるものとして、もう30年くらい前に録音された大工哲弘のCDをご紹介しましょう。1960年代に録音された「甦る沖縄の歌声」でも、そのようなプリミティブな「安里屋ユンタ」を聞く事が出来ます。
それから竹富島の「安里屋ユンタ」としては宮良康正のCD。本当は竹富島の「種取祭」のCDで、正に現地人々が歌う「安里屋ユンタ」を聞けるはずなのですが、残念ながら私はまだ聞いた事がありません。
更に「新・安里屋ユンタ」については、「八重山民謡のCD」ではありませんが、大工哲弘が唄って話題になった「ウチナージンタ」をご紹介しておきます。このCDの中では八重山古典民謡の師範でもある大工哲弘が「新安里屋ユンタ」を唄ったことで、
「ヤイマンチュ(八重山人)の唄者がなぜ、八重山口(八重山方言)を使わずに、ヤマト口(ヤマト方言)の新安里屋ユンタなどを唄うのだ!」
という批判を受けたそうです。
でも実際に現代の八重山に住む若者たちにとっては、地元に伝えられている「(古典)民謡」の「安里屋ユンタ」よりも、全国で歌われてメディアに乗ることも多い「新・安里屋ユンタ」の方が馴染みがある。「安里屋ユンタ」は唄えないけど「新・安里屋ユンタ」なら唄える。そんな状況もあるそうですから、そんなことを考えながら、この「安里屋ユンタ」を聞いてみるのも良いでしょう。

最後に「安里屋節」は、何十年か後には八重山民謡界を支える柱になっているであろう新良幸人の最新作CDと、唄者である以前に何よりも八重山(ヤイマ)の海人(ウミンチュ)である安里勇のCDとをご紹介しておきます。
八重山(古典)民謡の師範の息子に生まれ、小学生の時から八重山民謡の基礎を徹底的に鍛えられた新良幸人。八重山古典音楽コンクール最高賞に最年少で合格した新良幸人が、長じて沖縄を出てプロのミュージシャンとなり、もう一度自分自身のルーツ振り返ろうとした時に、一本の三線に7つも8つもマイクを用意し、三線の音が消えていくその消え方にまでこだわって録音した「安里屋節」と、石垣島に住んで海人(ウミンチュ・漁師)を続ける傍らで、30歳近くになってから民謡を習い始め、ついには八重山民謡の教師・師範にまでなって、今は自身で経営する民謡酒場の舞台に立ちながら、やはり海人も続けている安里勇が、竹富島の民家の庭にマイク一本を立てて録音した、同じ「安里屋節」。その二つの「安里屋節」の近くて遠い、遠くて近い距離感には、現在の八重山民謡の広がりと深さが現われているような気がします。
どちらが好きかと聞かれれば…。どっちでしょうねぇ?(笑)

【お勧めCD】

  CD名 歌手名 レコード会社 商品番号
八重山民謡集 大工哲弘 ビクター OCD-1000
甦る沖縄の歌声〜宮古・八重山諸島編 三隅治雄監修 日本コロンビア COCF-10553〜4
沖縄の民謡9〜八重山古典民謡<2> 宮良康正 キングレコード KICH-199
ウチナージンタ 大工哲弘 オフノート ON-1
月虹 新良幸人 エムアンドアイカンパニー MYCD-35006
海人〜八重山情唄〜 安里勇 リスペクトレコード RES-49

※追記

ちなみに、この歌の題名になった「安里屋クヤマ」というのは実在の女性で、今も竹富島には「安里屋クヤマの生家」と言い伝えられている家があります。
ゴシップネタとしては実際の「安里屋クヤマ」はどんな人物だったのかが気になるところですが、やはり本人の希望通り(笑)、与人の妻となって大きな屋敷と土地を贈られ、裕福に暮らしたそうです。
ただ、「妻」とは言っても、実は首里から赴任してきた役人の、所詮は「現地妻」。役人が首里に帰れば現地に一人取り残され、再婚も出来ず、周囲からも距離を置かれてしまったとのことで、(安里屋クヤマに限らず、他の「現地妻」も皆、同じ運命を辿った。)子供もいなかったそうですから、どの程度、幸せだったのかは分かりません。

まあそうは言っても、それは決して安里屋クヤマの根性が曲がっていた、ということではありませんから、それも理解してあげて欲しいな、とも思います。
彼女にしてみれば美人に生まれてしまったのが全ての不幸の源。一度役人に目を付けられてしまったら、八重山(古典)民謡に歌われているように、那覇から来た役人の求婚(と言うか、現実には無理やり「オレの女になれ!」と命令されたのだ、と考えるのが正しいのでしょう。)を断って、島の男と結婚する事などは、とうてい出来ることではありません。「安里屋クヤマは美人だ。」という噂が役所に届いた時点で、もう既に普通の人間としての幸せは諦めなければならなかった運命だったと言えるでしょう。
どうせ普通の家庭や普通の幸福を得る事が出来ないのであれば、せめて下級役人の現地妻になるよりも、より上級な役人の現地妻になりたい。そう考えた安里屋クヤマを、非難する気持ちにはなれませんよね。

なお、八重山民謡の曲名や読み方の表記は、人により、CDにより、楽譜(工工四)により、必ずしも統一されていないのが現状です。
このページで採用している表記以外の表記も多いと思いますが、ご容赦下さい。

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