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素人の素人による素人のための八重山民謡ガイド・番外[1] 沖縄を返せ |
(2005.01UP/2010.06.追記)
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実際に先生に習っているわけでもありませんし、沢山の本を読んだわけでもないので、
本来、とても他人様に八重山民謡を解説できるほどの知識は持たない私ですが、
もちろん私よりももっと知らない人もいるわけで、そういう方のために、
私が知っている限りの知識で八重山民謡の紹介をします。
これから八重山民謡を聞いてみようという時に、少しは参考にしてもらえるとありがたいです。
でも所詮素人の聞きかじりなので、かなりの間違いや思い違いがあると思いますが、
そんな時は堪忍して下さいね。
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どこをどうひっくり返しても“八重山民謡”どころが、広義の“沖縄民謡”ですらないのですが(笑)、沖縄の歴史と現状を考える上では避けては通れない、しかも力のある“歌”ですので、「番外」としてご紹介します。 この歌は1956年の9月に、「第3回九州のうたごえ祭典」で最初に発表されたとのことですが、その後の「沖縄返還運動」の盛り上がりのなかで、盛んに歌われたものです。作詞は全司法福岡高裁支部で、三井三池炭鉱での労働運動をリードし、「がんばろう」など、数多くの労働運動歌の作曲者として知られる荒木栄が作曲をしました。
しかし、この歌の歌詞は、沖縄(と遡る琉球王国)の歴史を知る者にとっては、そこで歌われる「民族」や「祖先」とは誰のことであり、沖縄は「誰が誰に返すのものなのか?」ということに、疑問を抱かざるを得ないものでした。そのため、この歌が世の中に発表された当初から、ウチナンチュー(沖縄の人々)がヤマトンチュー(いわゆる“内地”の人々)と共に、声を合わせて歌うには、どこか“居心地が悪い”と感じられていた部分もあったようです。 ただ、そうした疑問は、1950〜60年代の“本土”復帰運動の時にはまだ表立った問題とはならず、ウチナンチューの側から見た時の漠然とした“違和感”として感じられたに過ぎませんでした。同じく「沖縄を返せ」と声を合わせていたヤマトンチューの多くにとっては、「沖縄返還」も「反米・反安保闘争」の一環に過ぎず、決して「沖縄」に真正面から向き合っていなかった部分があったからかもしれません。(実はそのことこそが、“違和感”の源であったわけですが…。) しかし、1972年5月15日、沖縄県民が待ちに待った“本土”復帰が成し遂げられると、その“違和感”は現実の問題として、晴れて“本土”へと復帰した沖縄の人々の前に立ち塞がりました。復帰前も復帰以前と変わらず、米軍は沖縄に駐留(という名の占領?)を続け、米軍が沖縄の人々から「銃剣とブルドーザー」で奪い去った土地が、沖縄の人々に返されることはなかったからです。つまり、“沖縄返還”は米国政府と日本国政府の間の、極端に言ってしまえば書類上の“返還”なのであって、本当の意味での沖縄の人々への“返還”ではなかったんですね。 * * * 1972年の「沖縄返還」は、結局、ヤマトンチューにとっての“返還”に過ぎず、ウチナンチューにとっての真の返還となることはありませんでした。そうして、“沖縄返還運動”そして“本土復帰運動”のシンボルとして歌われた「沖縄を返せ」もまた、いつしか、人々の意識の中から忘れ去られてしまうことになりました。 その「沖縄を返せ」が再び光を浴びたのは、1990年代も半ばのことです。八重山民謡の風雲児・大工哲弘が、「沖縄を返せ 沖縄を返せ」と歌うところをたった一文字、入れ替えて、「沖縄を返せ 沖縄へ返せ」と歌い始めたのです。 そして今、米兵の暴行事件から10年を経て、沖縄の人々と「沖縄を返せ」の関係は、どのように変わったのでしょうか。 米兵の暴行事件とそれを契機とした県民運動によって盛り上がった基地縮小運動は、普天間飛行場の返還の約束などを取り付けましたが、移転先の問題が解決されず、未だ全面解決には至っていません。その間、「ウチナー」と「ヤマト」の関係も、一見何も変わっていないかのようにも見えますが、その一方で、返還された軍用地の跡地に次々と立てられる無個性なショッピングセンターの姿などを見ると、今ではむしろ「ウチナー」の側が自ら大きく変わってしまって、かつて「沖縄を返せ」と歌われた「沖縄」そのものが、既にどこへ帰れば良いのか分からなくなってしまっている面もあるのではないか、と、私などには感じられる部分もあります。つまり、米軍によって奪われた土地が全て沖縄の人々に返され、米軍が全て沖縄の地からいなくなることは、「沖縄」が沖縄に返るための前提だとしても、例えばそれが出来たと仮定して、それだけで「沖縄」は本来の沖縄へ帰ったことになるのか?という問題ですね。 このように、「沖縄を返せ」は、そもそもの誕生の経緯から、歌われ続けてきた長い期間を通じて今に至るまで、「沖縄」が抱える(抱えてしまった?)様々な問題に、あれこれと思いを巡らさざるを得ないような歌となっています。 ただそれだけに、このような歌があり、様々な立場の沢山の人々が、それぞれに様々な思いを抱いて、この歌を歌って来たのだと言う事実を、私は出来るだけ多くの方に知って欲しいと思います。旅行パンフレットに載っている写真のような、白い砂と青い海の「オキナワ」だけが、「沖縄」ではないからです。そのような「オキナワ」が現在の「沖縄」の一部であることは間違いありませんが、そのすぐ脇に、琉球王国時代からの伝統を守り受けついている「沖縄」もあり、そして未だに米国の軍隊の支配下にある「OKINAWA」もあります。それが紛れもない、「沖縄」の真実であり、私はそのような沖縄にこそ魅力を感じ、また敬意を払うべきだと感じているからです。 * * * さて、その「沖縄を返せ」のお奨めCDですが。 また大工哲弘は、2000年に発表したCDでは、「沖縄を返せ(21世紀バージョン)」として、歌詞を全面的に変えた「沖縄かがやけ」を歌っています(作詞:高田昇)。大工自身がライナーノートの中で「焦らず悠久に流れる島うたのように、21世紀に翼を広げるつもりでこの新バージョンを歌っていきたい。」と語るこちらのバージョンにはまた、賛否両論あると思いますが、このような歌が生み出され、また生まれざるを得ないのが、「沖縄」なのだと、私は思います。ご興味をもたれた方は是非、インターネットの検索サイトなどで「沖縄を返せ」をキーワードに、検索を掛けて見て下さい。沢山のサイトを読むうちに、私たちの先輩たちがこの歌に込めた様々な思いが、そしてその少しずつ違うことが、理解出来てくるでしょう。
※追記 米軍の基地問題というと、一般のヤマトンチューの皆さんは、いわゆる「政治問題」だとお感じになるかもしれません。しかし、沖縄に生まれ・育ち、実際に日々基地のある現実に接しているウチナンチューの人々にとっては、それはどこか他人事の匂いがする「政治問題」などではなく、日々の暮らしに密接した「生活問題」なのではないでしょうか。沖縄の人々が解決を欲しているのは、決して“大所高所に立った”政治問題などではなく、車の騒音やゴミの問題などと同じレベルの、生活の問題なのではないかと思うのです。(事実、いわゆる「特措法問題・不法占拠問題」などは、本来は民事レベルの土地の貸し借りの問題を、日本国政府の側がわざわざ法律を変えるようなことをして、「政治問題」にしてしまったわけですしね。) そして、その米軍基地の問題を、確かに沖縄県人ではありながら、沖縄県の中にあっては「ウチナンチュー(沖縄人)」とは呼ばれず、「ヤイマンチュー(八重山人)」と呼ばれる大工哲弘が歌う時には、そこにまた、やはり微妙な温度差が生じているに違いないことも、見逃すわけには行きません。 「ヤマト(大和)」と「ウチナー(沖縄)」と「ヤイマ(八重山)」という地域の差。「唐世(からゆぅ)」と「薩摩世(さつまゆぅ)」と「ヤマト世」「戦(いくさ)世」「アメリカ世」、そして再びの「ヤマト世」という時代の差。そしてそれらが積み重なった、現在の「沖縄」と「オキナワ」と「OKINAWA」の差。 大工哲弘がいまや八重山を離れ、那覇を拠点として、全国へと活動を広げていることとも合わせて、この歌を歌うと言うこと、そして聞くということは、「沖縄」という言葉に重ねられたいくつもの意識の、そのそれぞれのズレを感じると言うことに他ならないと言えるのではないか。私はそう考えています。
※追記2(2010.06.05)
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※ なお、八重山民謡の曲名や読み方の表記は、人により、CDにより、楽譜(工工四)により、必ずしも統一されていないのが現状です。
このページで採用している表記以外の表記も多いと思いますが、ご容赦下さい。
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